言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

沈黙という母胎

〇日

近道をしようとナビを使うが

駅裏は開発が進んで、古いナビは役に立たない。

 

住宅地に迷い込んだ。

行き止まりにあたり、バックをしようと窓を開けた。

どこかの家からオルガンの音。

いまどき珍しいなと思って、クルマを止めて耳を澄ます。

子どもだろうか。

足踏みのタイミングが少しずれて、

時折、音がフガフガ、パフパフともがている。

 

小学生のころ、キンちゃんの家に遊びに行き、

オルガンを聴かせてもらうのが楽しみだった。

キンちゃんのかあさんは

昔、学校の先生だったので、家にオルガンがあったのだという。

キンちゃんの自慢は「ネコふんじゃった」の速弾きで

速弾きだから足踏みも速踏みだった。

 

短い脚で、カタカタカタカタいいながら

足踏みをして空気を送り、

小さな手で「ネコふんじゃった」を繰り返し弾いてくれた。

天才音楽家かもしれないと、本気で尊敬をした。

 

いつか大人になったら、

オルガンのある家に住みたいと神さまに願いもした。

そして、この日。

改めて、オルガンのある家って、いいなあと思った。

 

全身でもがきながら

あんな呑気な音を出すなんて、なんて、素敵なこと。

 

 

〇日

雨。

少し早めに、仕事を終える。

雨だからな、と自分に向けて、意味不明な言い訳をする。

 

夜、本。

一人の作家に惚れ込むと

その作家の作品をとことん読むようにしている。

再読、再再読を繰り返すので、

一人につき、のべ100冊以上読み込むことも少なくない。

哲学者(世間では評論家というが)の森本哲郎さんもその一人。

 

最初に出会ったのは19歳の春だった。

カメラマンのAさんがバングラデシュの取材から帰国し、

横浜で会ったときにくれたのが「ゆたかさへの旅」。

副題にある「日曜日・午後二時の思索」から

やがてインドへと「ゆたかさとは何か」を探って旅が始まる。

何度も読み返し、

うかれたままの自分とこの国の「ゆたかさ」に戸惑い、

その夏、一人でインドへと旅立った。

現地で赤痢に罹り、2週間で8キロやせ細り

生死の間を彷徨った、33日間に及ぶ過酷な旅であった。

 

その後も「文明の旅」「生きがいへの旅」「サハラ幻想行」

「人間へのはるかな旅」「ことばへの旅」など数十冊を読み込み

徹底した現地取材に裏打ちされた

思索と哲学の回廊を巡らせていただいた。

 

 

過去20数か国に及ぶ旅は全て、森本さんから学んだ文明論や哲学が

下敷きとなっていることを告白しなければならない。

少し毛色は違うが、

記者体験から書かれた「私のいる文章」は

文章に行き詰ったときには必ず開く、バイブルでもある。

 

「沈黙とは、ことばが黙した状態なのではありません。

 その中から、ことばが生まれ出てくる母胎なのです」(「ことばへの旅」)

 

2014年に天国への旅に出た森本さん。

いつかお会いすることがあったら

「言葉こそブラフマンである」というそのことについて

詳しくお話を聴きたいと思っています。

 

 

〇日

夜、久々に開く、寺山修司

 

向日葵は 枯れつつ花を捧げをり 父の墓標は われより低し

 

マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや

 

吊るされて 玉葱芽ぐむ納屋ふかく ツルゲーネフを はじめて読みき

 

 

これだけの短い文面のなかに

世界があり、匂いがあり、記憶が息づき、面影が揺らぎ、

生があり、光があって、亡霊がいる。

 

「私の墓は、私のことばであれば、充分」

 

そう書いて旅立った寺山に、1ミリでも近づけたかしら。

窓の外、春の大雨。