言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

育てた覚えなんかない

 

父と二人きりで飲み屋で飲んだことがあった。


実家のある町の「親不孝通り」と呼ばれる、
駅前通りから2本、細い道を入った裏通り。


確か大学3年の春休みの頃で、
当時はまだ赤や紫のネオンが通りに寂しく揺らめいて
さびれた店と店の間の闇には
そこにしかない
沼に浮くガスのような、澱んだ呼吸がうごめいていた。



5、6人が座れるカウンターだけの薄暗い店であった。
生まれて初めて、父と肩を並べてカウンターに座った。
カウンターのなかにはおばさんが一人。
年は父と同じくらいで
言葉に少し訛りがあって、癖のあるそのイントネーションで
すぐに朝鮮の人だとわかった。

 


昭和30年代まで炭鉱で栄えたこの町には
戦時中、たくさんの朝鮮の人や中国の人が送り込まれた。
公園の山の麓の目立たない林のなかには
当時、「タコ部屋」で亡くなった彼らのための慰霊碑が
ひっそりと建っている。
父は年に何度か、この公園の裏山まで山菜採りに
私を連れて行き
その帰り、碑の前に立っては、
ぼんやりと煙草をふかしていたのを覚えている。



「タコのように、自分で自分の身体を食らうほど、
 食事も与えらず、働き通しで死んでいった人たちがいた」

 


父はここに来るたび、同じ言葉を繰り返した。
その人たちの子孫なのかどうかはわからないが
かなりの数の朝鮮や中国の人たちが
町に残って暮らしていた。


北海道では、関東や関西のようにひどい差別がないからだ、
という話を父から何度か聞いた。



おばさんは、「へえ、これが息子さん」といって
私の顔を真顔で覗き込むようにして見た。
年は年でも、この世界に生きる人特有の色香があって
品のいい細い顔と
パーマのかかった真っ黒な髪が、壁の照明を受けて朱色の艶を湛え
二十歳を過ぎたばかりの私でも、いい女だな、と思った。

 


と同時に、父がずいぶん前からこの店に通っていることを知り
父の顔とただの男の顔とが交錯し
私の知らない父が、私の知らないことを
この人と話していたことを、さびしく思ったりもした。

 


父はサハリンの生まれであり、この人も異国の人。
この町は所詮、
自分たちの故郷などではないという
その共通項が頭に浮かんだとき、
目の前の二人を結ぶか細い糸のようなものが見えてきて、
軽い嫉妬さえ覚えたのだった。



父は黙ったまま飲んでいた。
店のなかの沈黙が息苦しく迫って、私はそれに耐えきれず、
「おばさん、子どもは?」と尋ねた。


「いたけど、いない」
「内地(本州)に行ったの?」
「死んだ」



一瞬、灰色の重苦しさが狭い店の中に充満した。
おばさんは、いきなり、私たちの目の前でコップを洗い始めた。
沈黙に分け入るように「せっかく育てたのにな」と父がいった。

 


「育てた?」
顔を上げたおばさんは、そういって、カラカラと笑った。
「育てた覚えなんかないね。育つのを見ていただけ」
私は何を話していいのかわからず、一気にコップのビールを空けた。



そのあと、どのくらいの時間、店にいたのだろう。
店を出てからは父と肩を並べて安っぽいネオンの下を歩き
大きな橋を渡って、
二人で家路についたことは、なぜか記憶に残っている。

 


闇の中で「息子さん、なんで死んだの」と尋ねる私に、
父は「知らん」とだけいった。
知ってるくせに、とはいえなかった。



3月とはいえ、道の雪は半端に溶け、そのあとすぐに凍って
時折、ツルッと滑っては、父の肩につかまった。
蒼い月が、空にはりつくようにして、ぼんやりと光っていた。