言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

いい人生であったと

Aさんと初めて会ったのは、30年以上も前のことである。

家のことに関わり始め、

右も左もわからずに、寒くない家、暑くない家、

限りなくゼロエネルギーに近い家、

弱い身体になってもなお、

介護も看取りもできる家の普及を願って

取材、調査をはじめた。

 

多くの現場で、ときにはビルダーの宴会でも

Aさんの姿をお見かけした。

大手住設メーカーに属しているものの

自社の製品を営業することは一切なく、ただひたすらに

日本の住宅の性能向上を願って、

各方面に地道な働きかけをした人であった。

 

それからも、盛岡で、青森、山形、福島、宮城、山形、

東京をはじめとする関東各一円、中国地方でも

Aさんとは数えきれないほどお会いし、情報を交換し合った。

 

鞄はいつも資料でいっぱいだった。

何かお聞きすると、その場で厚さ数十センチもの資料を

鞄からすっと取り出し、

関連するデータを私に手渡してくれた。

 

 

あの年の夏は、何度か東京でお会いした。

断熱改修が始まった頃で、

関係する方々と交流することが増えていた。

その後編むことになった本についても

「あらゆる面で協力します」と快諾いただき

その都度、膨大なデータをメールや宅配で送ってくれた。

 

帝国ホテル、パレスホテル、東京ドームホテルなど、

打ち合わせはいつも、超がつくほどの高級ホテル。

大学や研究所などの学者、研究者を交え、情報交換を重ねた。

 

場末の居酒屋でも高級ホテルでも、

相手が学者であろうとスナックのママさんであろうと

少しも態度を変えることはなかった。

酔いが進むと、テーブルの下でズボンの裾をめくって

すね毛だらけの脛をあらわにした。

日本の未来、日本人の行く末について語れば語るほど、そうなった。

 

もともとは映画俳優のようなハンサムな顔つきだが

いつのころからか歯の何本かが抜けてしまい、

いささか顔つきは変わったものの、

豪快な笑いとテーブルの下で裾をめくる癖はそのままだった。

 

編んでいた本のゲラが出版社から送られてきたのは

その年の12月28日のことだ。

担当編集者の赤字が数えきれないほど入れられ、

改めて、自分の詰めの甘さを確認する機会ともなった。

Aさんから頂戴したデータに基づき、

断熱改修に関する項目も書き上げた。

入念にデータを確認し、

本ができたら真っ先にお届けしようと思っていたのである。

 

訃報が届いたのはその3日後、31日のことだ。

同社のBさんが知らせてくれた。

すい臓がんで

6月頃から体調を崩し、入退院を繰り返していたという。

 

年末だけに移動もままならず、

関西のご自宅での葬儀への出席は、見送ることになった。

 

住宅への投資は将来の生活への投資であり

国レベルでは福祉への先行投資にほかならない、というのが

Aさんの根底にある考えであった。

神戸大・早川和男名誉教授が唱えた「居住福祉」の体現そのものである。

自社の製品はそれを手助けする一部にすぎないと、

あくまで大局的な立場から

業界はもちろん、政府機関に向かっても胸を張って、持論を述べた。

 

「あなたは伝えるのが仕事なのだから」

Aさんの働きかけで、

東京を経由し、全国に発信できた情報は数えきれない。

業界、行政に動きがあるたびに電話をいただき

「よーく、やってくれました!」と大きな声で褒めてもくれた。

その年の大晦日、明けて元日は

Aさんの資料の整理で明け暮れた。

資料は厚さにすると、15センチもの束になっていた。

 

「過去に建てられた

5千万戸の不良ストック住宅に住む人たちに、

『いい人生であった』といってもらえる

終の棲家の再構築が必要です」

 

亡くなる年の6月16日付のメールである。

ちょうど、Aさんが入院する頃。

ご家族も、余命の短さに、気づいていただろう。

 

いい人生であったと、Aさんはよく口にしていた。

どんなときも、自らの人生に

納得をし、腹を括っていたのである。

 

そんなAさんの願いは、ときを経て、

揺るぎない地層となり

日本の家のかたち、暮らしの細部に息づいているはずである。

合掌。