書きっぱなしで、
あとは編集者や校正の専門家にお任せ、
といった仕事ができたら
どんなに楽だろう。
何百回も、何千回も、そう思ってきた。
誤植の一つや二つや三つ、何てことない。
誤植があっても「いい本(文)だったね」
といわれるような
本づくり(原稿書き)をするのが先決だ。
いつか、友人たちとの飲み会でそういった途端、
ほぼ全員から猛烈に反論されたことがあった。
どこにでも転がっている程度の反論だったが、ほんとはきつかった。
誤字脱字はないかもしれないが
1行たりとも読みたくない本など、そこらにあふれている。
1字や2字の誤りより
つまりは、表現の品格が問題なのでは──と言いたかった。
アメリカ人の編集者は、
自分の編集する新聞や雑誌に
誤植がないように血眼になって努力する。
中国人の編集者は、もうちょっと賢明である。
読者が誤植を見つけて
大いに自己満足するのに任せておくのだ
─中略─
アメリカでそんなことをしようものなら
編集者はえらいことになるのだろうが、
中国ではべつに問題にならない。
理由はかんたんなことだ。
要するに、
そんなことはたいしたことではないからである。
──林語堂『生活の発見』
とはいえ、仕事は仕事。
ミスがあって当然の仕事など、この世に存在してはならない。
と同じくらい、
人さまの小さなミスをやり玉にあげて
炎上を繰り返している社会も、大人げない。
「やさしさを定義してください」
の問いに対して
「黙ってそばに居てあげること」と答えている。
アメリカ人でも中国人でもない
日本の編集者は、
そんな仕事ができるのじゃないかと思ってきたが、
これもまた反論を浴びそうなので、大きな声では語らない。