言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

遅れの神

盛岡発の新幹線で仙台に向かい、
小一時間の待ち時間を経て鈍行列車に乗り換え、
福島県原ノ町へ(南相馬市)。

乗車前。
仙台から鈍行列車に乗るのが
いやでたまらなかったが、いざ乗ってみるとがら空き。
4人席に一人陣取って、靴を脱いで足を伸ばし、
沿線の景色を見ながら、のんびりとした時間を味わった。


子どもの頃から、汽車が好きだった。家の裏の線路は未電化だったので、自分の中ではみんな、汽車。

 

10メートルも離れていない線路に、蒸気機関車が一日に何往復もする鉄道官舎で育った。


赤ん坊の頃から、
汽車に乗せても絶対に寝ることはなく、
座席に正座したまま、何時間でも外の景色を見ていた。
そんな子どもだったと、父がいっていた。


汽車のなかで寝る大人のことなど、不思議でならなかった。
窓の外に流れる景色は、
どんな絵本より、どんなテレビより映画よりも楽しかった。
電車のなかで寝るようになったのは
ここ10年くらいのこと。
それまで電車のなかで寝たことは一度もなかった。
自分の場合、電車とは、主に新幹線を指す。

鈍行、とはよくいったものだ。

 

ドンくさく行く。鈍く、走る。
特急でも超特急でも寝ることを覚えたが
鈍行に乗ると眼が冴えて、窓の外を見入ってしまう癖は昔のまま。
鈍さや遅さ、といったなかでこそ明確に見えるものもある。

遅れの中にこそ、ほんとうの美が潜み、あの人が見える、神がいる。