言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

飛沫(しぶき)

高校を卒業する直前まで、
四畳半の部屋に、2枚の油絵が飾ってあった。
父の弟、つまり叔父の描いた
いずれも100号(160センチ×130センチ)の油絵である。
飾ってあったというよりは
家の中に掛ける場所がなく、仕方なく私の部屋に「置いて」あったに等しい。


1枚は港に幾漕かの小さな漁船が並んだ絵であり、
もう1枚は、真冬の暗い海岸線に
古びた番屋が寂しく描かれた絵であった。

看板屋の見習いからスタートした叔父は
中卒後、独学で油絵を学び、50代前半で亡くなる前には、
中央でも有名な美術展の審査員にまでなった。
画壇で活躍するようになったT氏やA氏も、
叔父にいわせると「金が目当てのろくでなし」であり、
生涯、売れる絵ではなく、好きな絵だけを描いた。

人生は、波瀾万丈だった。
家族を持ったものの、やがて離散となり、
職を失った本人がしばらく我が家に転がり込んで
数か月もの間、私の部屋で寝泊まりしたこともあった。
再婚したはいいが、幼い乳飲み子を養うのが難しく、
従妹にあたるその子まで我が家で面倒をみたことがあった。


2枚の絵は
父からの借金のカタにと置いていったものだった。

長らく、そんな叔父の絵が、好きにはなれなかった。
そのほかの絵も何枚か見せてもらったが
ほとんどが海と雪と小さな船がモチーフであり、
海といっても、
真冬の時化た鈍色の海に白い波が牙を剥く、荒々しい海を好んで描いた。


空はいつも泣き出しそうな鳩羽色。
船は大きな美しい船ではなく、
いかにもおんぼろで情けない、小さな漁船ばかりだ。
雪の色彩も、鰊の鱗のような淡くかすかな銀色で表わした。

絵は、叔父が死んでから家族に返還された。
いま、わが家の居間にあるのは、その半分ほどの大きさのカンバスに描かれた絵。
その絵も、灰色の雪の湾岸線に沿って古い民家が建ち並ぶ、
真冬の日本海の絵である。

「泣いているみたいだ」

叔父の絵を見るたび、母は決まって、そういった。
子どもの頃の私には、確かに、その暗さが耐えられなかった。



泣くことのできない、大人ばかりがいた時代があった。

 

泣けない代わりに酒を浴び、叫びをあげ、
絵を描き、それでいて、形のあるものは破壊し、人と別れ、自身の魂を削った。


それを馬鹿げた人間と評するのはたやすいが、
この年にもなると、
飛沫のように生きた人たちのことが、いとおしくてならない自分もいる。