言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

栞(しおり)

周囲の評判もそれなりによくって、学歴や地位の高い人でも
どうにも苦手な人はいる。
街や土地にも同じように自分との相性のようなものがあって、
一度訪れただけでまた来たいと思う街もあれば、
たった5分いただけで、金輪際訪れたくない街もある。

旅の途中、少し遠回りしてでも
好んで立ち寄った街が、日本の中にもいくつかあった。
横浜もその一つ。
この街に行けば必ず入る古いレンガ造りの喫茶店があって
店の名は「栞(しおり)」。
住宅街の一角で見過ごしてしまいそうだが
白く塗られた木枠の窓の向こうに
朱色の灯りが、ぼうっと透けて見える懐かしい佇まいが好きだった。

ドアを開け、レジの前を通って2階に上がる。
車2台がやっとすれ違う狭い道路の向かいは低いビルが並び、
窓際に席を陣取ると、道行く人の表情も、はっきりと見える。


夕刻。
正面の家と家の隙間から夕陽が店のなか深くまで差し込んで
古い板張りの床や傷んだベージュの塗り壁、
無造作に置かれた木の椅子やテーブルを真っ赤に染める。
この店を訪れる恋人たちは
そんな時間が必ず訪れることを知っていて、窓際に席をとる。


赤く染まった時間はやがて金色に変わり
陽が沈んでからしばらくの間は、その金色が薄い赤紫へと変わる。
やがて地表からゆっくりと立ち上がる闇のなかに、
街のネオンが人工的な光彩をこれみよがしに放ち始める。
その街の、その店の、そんな時間が、みんな好きなのだろう。


「栞」は「枝折り(しおり)」。


枝を折って、道しるべにしたのがその語源という。
読書の際の「栞」も、昔は木を薄く切ったものを使った。
本を読むときの道しるべに「栞」の字を充てるなんて、なんて素敵な着眼点。
この字の字面(じづら)も言葉の響きも嫌いじゃない。

何かに迷ったときに寄ったその店も、
その都度、道しるべの役割を果たしてくれた。
そこで時間をともにした人もいたが、遠い昔の話。

 

そろそろ 「栞」がなくても歩けるようにならなければと、また迷っている。