言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

カムサムニダ

少しの間だが、京都で働いたことがあった。
昼休み、毎日のように散歩したのが青龍院や知恩院の境内。
時間があるときには円山公園を抜け
二年坂、三年坂をのぼって清水寺まで足を伸ばす。
蹴上まで行き、南禅寺や哲学の小径をたどるのも好きだったが、いつものコースが気に入っていた。

知恩院の圧巻ともいえるスケール、
清水寺までの坂道の、どこかほんのりとした懐かしさ。
歴史の記憶と人の気配がどこかにあって
静か過ぎないことが、かえって気を紛らわせてくれた。

いつかの出張の際にも
同じコースを一人でゆっくりと辿った。


知恩院の境内は相変わらず観光客で賑わっていたが、
境内から円山公園に抜ける裏の石段は観光客は少な目で
春の陽に照らされた樹木や植栽が濃い陰翳をつくり
そこだけ、時間がゆっくりと流れているようであった。



韓国での仕事の帰り、ソウルからの航空券を捨て、釜山からフェリーに乗って帰国したことがあった。
大阪ターミナルを経由して京都に入った。

 

このときも、このコースを歩いた。
同じフェリーで知り合った韓国人の女子大生と一緒だった。


彼女は「日本人は嫌いです」といいながらも
初めての外国旅行で緊張していた。
京都にいる間はずっと行動をともにした。
どこに行くにもテクテクと、後についてくる。同じユースに泊まった。男女別の宿泊施設である。
色気もないが危険もない、そんな男と判断されたに違いない。

青龍院や知恩院、どんなお寺に行っても、
彼女は周囲の人の目を気にすることなく
仏様の前ではひざまずき、五体投地のように畳に頭をこすりつけ、時折顔をあげつつ拝観を繰り返した。


日本人はそこまでしないのだ、といっても
彼女は頑として「仏様ですから」といって、その姿勢を貫いた。
2日間行動をともにして
私は帰路を急ぎ、彼女は名古屋へと向かった。


その後、帰国した彼女から、何度も手紙を受け取った。
手紙はいつも、半紙のような上質な紙に、墨と筆を使って丁寧に書かれていた。
半分は辞書を使って書かれた拙い日本語。
あとはハングルで、後半は何が書かれているのか、わからなかった。

日本人のことはわからないが、文化の素晴らしさに心打たれた。
そんな文面があった。
異国を理解するには、人や環境を理解しようとするよりも、
文化を知ることが先である、という内容だった。



どんな国を旅しても、人や環境に馴染むのは難しくはない。
文化を通してこそ、深くその国と向き合える。
そう言いたかったに違いない。

新旧の日本文化を学びたいという要望に応じて、
仏像の写真集や最先端のファッション誌を何度か韓国に送った。
お礼の手紙はいつも大半がハングル語で、ほとんどを判読できないままだった。

 

いつも手紙の終わりには「感謝」の漢字が添えられていた。

 


日本語の「感謝」は
ハングル語でいう「カンサムニダ」の「カンサ(かんしゃ)」にあたる。
写真はシャジン、うどんはウドン、封筒はプウトウ、料金はリョクン…と
日本にとって
言葉という文化一つとっても、こんなに似通った国はほかにない。

にもかかわらず、2つの国の間では、いまだ小競り合いが続いている。
どちらかというと我々日本人のほうが、
彼女がそうしたように
畳に頭をすりつけるくらいにして対象に敬意をはらい、
異なるものを謙虚に学ぼうとしないからではないか──と思うことがある。


教わるということは、いったん、自分を捨てきることだ。
韓国の若い彼女が、教えてくれたことである。