言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

我慢の坂道

〇日

リノベーション物件、撮影。

以前は、三脚を立て、

ファインダー内で丁寧に画面の垂直をとり、

マニュアルに切り替えて露出の補正をし、

レリーズを操って、じっくりと撮影してきた。

これ以外の方法はなかったが、

最近のカメラは、やたらと高感度時のノイズ耐性が上がり

F11まで絞り込んでも、手持ちで撮れる。

4Kとやらは全く分からない。

1秒を60分割できる写真など、写真ではないと自分に言い聞かせる。

 

厚みのある壁をえぐって彫像や花瓶などを置く

窪みのようなスペースのことを「ニッチ【niche】」という。

生態系のなかで占める位置も表すこの言葉はまた

「居場所」と言い換えることもできる。

 

いま目の前にある問題でさえ、自身の「ニッチ 居場所」を

探していこうという腹の括りがあるか。

仕事や子育てや家の住みこなし、

生き方のあらゆる場面に、どこか通じる気がする。

 

 

〇日

Aさんと会った。

あれから数日たったが、あの日の「眼差し」が、

背中のあたりに

まだほんわかと残っている。

 

「視線」には緊張を伴うが、「眼差し」だと安心を感じる。

 

Aさんの書く記事には、

ご自身の「眼差し」が潜んでいる。

活字の向こうにいる、全ての人の幸福を願う「眼差し」である。

 

 

〇日

子どものころからずっと

両親から「我慢が足りない」といわれてきた。

確かに、これまでの人生、

何についても我慢をするのを避けてきた。

努力というのも避けてきた。

 

痛みについての我慢は、人の数倍は足りない。

何度か経験した手術でも

看護師さんから

「こんなに痛がる人は初めてです」と文句をいわれながら、

麻酔が覚めたあとの痛み止めはたくさん打ってもらったし、

生まれてから7回しか行ったことのない歯医者でも

先生の顔を凝視しながら「絶対に痛くしないでください」と懇願してきた。

 

 

「我慢」は仏教語でいう「七慢」のひとつで、

サンスクリット語でいう「mana(マーナ)」。

ちなみに「七慢」とは、

 

慢=他人よりも自分の方が高い位置に立とうとすること。

過慢=同等のレベルの人に対して、自分の方が上だと思うこと。

慢過慢=自分より優れた人なのに、自分の方が上だと思うこと。

増上慢=悟ってもいないくせに、悟っていると思い込むこと。

卑慢=自分よりずっと優れている人と比べ、少ししか劣っていないと思うこと。

邪慢=自分が間違っているくせに、あくまで自分が正しいと主張すること。

我慢=自分に執着することから起こる驕りの気持ち。

 

「我慢」はもともと「驕り」のような意味があったが

いつのころからか「我を張る」の意味で使われ、

その態度が耐える姿に見えるため、

現在のような意味となったという。

 

こうして「七慢」の言葉を並べてみると

自分には「我慢」だけでなく、ほかの六つも当てはまる。

いいです、別に。

 

 

〇日

何一つ仕事が手につかない。

まだ日の高いうちに休もうと決めるのは、少し勇気が必要だ。

世界中でいちばん怠け者のように思えてくる。

 

誰とも会いたくないし、どこにも行きたくもない。

何一つ見たくもなければ、聞きたくもない。そんな日もある。

 

息を切らして登り続けてきた、急峻な坂道。

 

登ったからには、

また下らなくてはならないのかな。

 

頂がどこだかわからないまま

近頃、下り方ばかりを探している。