言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

耳果報

〇日

気温や室温の「あたたかい」には「暖かい」の文字を充てる。

コーヒーやミルクなどの液体は「温かい」。

気持ちの「あたたかい」は、「暖かい」ではなく「温かい」。

どうやら人の気持ちや心は、液体扱いのようだ。

 

午後、A社のBさんとC子さん、ひょっこり来所。

差し入れで頂戴した柏餅を3人で頬張り、お茶っこタイム。

2人の顔も、一緒に過ごした時間も温か。

時間も液体扱いで、固まったり、とろけたりする。

 

※追

柏餅の葉っぱは、食べられないことを

今日、初めて知りました(葉っぱごとかぶりついてしまいました)。

 

 

〇日

コロナが長引き、本を読む時間が多くなった。

新刊は読まない。

圧倒的に多いのが自宅の書棚にある本の再読。

 

一度に600冊も処分するようなことが、何度かあった。

古本屋に買い取ってもらうのも面倒になって、

ゴミ処理場で廃棄したことも2度3度。

あとになって、処分した本をまた購入するといった

アホなことを繰り返している。

 

10年たっても、20年たっても、

その時代に自分自身が選び抜いた本をまた読みたくなるのは

自分の根っこのようなものが、

あまり変化していない証拠だろう。よくも悪くも。

 

21段ある書棚には、いまも隙間なく本が並ぶ。

資料が増えると押し出されるように、捨てる本が増える。

 

今後、1冊の本を購入せずとも、

ここにある本を再読するだけで、一生かかっても足りない。

 

ベストセラーや新聞や雑誌、ネットで配信される最新情報を

多くの人と共有しても「全体」につながることは決してなく、

孤独感を深めていくだけ。

 

何かしらの目的をもって量産される情報が、

人の心の砂漠化を進めるだけの存在に思えてくる。

 

何かを知ろうという作業は、本来、

徒労にしか見えない過酷な作業の連続だ。

 

3回くらい生まれ変わって再読を試みても

書棚の本の10分の1さえ理解できそうにない。

そのくせ、希薄で濃厚を

漉すような仕事ばかりやっていて、そんな自分が嫌になる。

 

 

〇日

朝から晩まで、たくさん笑った。

いったん笑うと、

何でもかんでもおかしくなるから不思議。

 

うれしいことや美しい音、素敵な言葉を聴くことのできる

幸せのことを「耳果報」という。

 

その気になりさえすれば、周囲に「果報」はあふれている。

 

いい言葉、いい音を選んで聴くのは

耳の形状や聴力ではなく、その人、そのときの「意」。

聴こうとしないで耳に入ってくるのは、音でしかない。

 

笑い声は、なににも代え難い「耳果報」。

笑いながら、

笑うこともできなかったころの自分を思い出しては

少しだけ哀しくなって、それがおかしくなって、また笑う。