言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

針箱とカッコウ。

母は、北海道の美瑛という町の農家に生まれた。貧しさゆえか「農家の仕事だけはいやだ」といって、尋常高等小学校を卒業後、自転車で3里(12キロ)も離れた町の洋裁学校に通い、技術を身に付けたという。

私たちの子どもの頃はまだ、既製服の種類は多くはなく、子どもも大人もお金持ちも貧乏人も、布地を買って洋服をつくるのが当たり前の時代だった。母は洋裁の内職で父の安月給を補い、我が家の家計を支え続けてきたのである。その腕はかなりのもので、子ども服や婦人服はもちろん、街では有名なヤクザの大親分のスーツも仕立てた。仕事はいつも名指しできていて、町の腕利きテーラーさんから仕事を頼まれることもあった。

父が泊り勤務のときは、茶の間は母の作業場と化した。洋裁道具や大きな生地をばっとひろげて、裁断をしたり、纏ったり、縫ったり。ときには長い時間、物音一つ立てずに針仕事に専念し、また、時々はバタバタバタッと大きな音をたてて足踏みのミシンをかける。このミシンは夕食後、高校に入るまで、私の勉強机でもあった。

針箱やはさみや糸通し、いろんな色の糸巻きや銀や金色の指ぬき、メジャー、ゴム、竹の物差しなどなど。使い込まれた針箱のなかは、珍しい道具ばかりだった。時折、箱のなかをごちゃごちゃとかき混ぜ、道具を取り出し「へえ」といって眺めては「こらっ」という怒号と同時に、竹の物差しで叩かれたりもした。年頃になって「このクソババア」と逆らっても、相手は刃物や棒や針をたくさん持っているので、かなわないのである。

日曜日や夏・冬の長い休みのときは、私と妹は朝から晩まで居場所がなく、机代わりのミシンも使えなかった。母が床に向き合うようにして布地の裁断をしているときは、私たち兄妹も床に教科書を置き、お尻をつんと天井に突き出すようにして読み書きをした。

勉強に飽きると、読みかけの本の感想や好きな音楽のことを、母の背中に話しかけた。「この間習った宮澤賢治という人の詩って、すごいね」なんてことをいうと、母は作業の手を止めることなく、背を向けたまま「詩とか文章なんか書いては食えない。そういう人間はろくな奴じゃない」と、いつも全否定をされた。当時ぞっこんだったフォークソングやロックの話をしても「おまえ、まだケツ青いなあ」と、取りつくしまもなかった。

しかし、居場所がなくても、話を聞いてくれなくても、母が仕事をしている姿を見るのが好きだった。そこに居るだけで、よかった。

 

 

※生前、母が使っていた「針箱」。遺品は葬儀を終えたその日のうちにほぼ片づけたが「針箱」だけは捨てることができなかった。カタカタで書かれた「ハリバコ」は認知症の症状が強くなり、次第に漢字の判読もできなくなって、力を振り絞ってカタカナで書いたのだった。この時期はすでに、ひらがなで息子の名前も書けなくなっていた。



ある休日のことだ。父は仕事に出ていて、母はいつものように茶の間を独り占めし、内職に精を出していた。私たちはといえば、テレビの真ん前に陣取った母をよけるように、からだを左右に振りながら視線を確保し、テレビに夢中になっていた。

ふと、母が手を止め「テレビを消せ」といった。あわててテレビを消すと「カッコウ…」と母がつぶやいた。耳を澄ますと、開け放たれた窓から、カッコウカッコウ…と呑気な鳴き声が聞こえたてきた。その鳴き声は、カッコウの姿がすぐそこに見えるくらい、耳の近くで響いてきた。初夏の森が銀色に輝いて、目の前に広がっているみたいだった。


カッコウの鳴く、この季節がいちばん好きだな」。うっとりするようにそういって、母の手はすぐにまた、仕事に戻っていった。

今朝。外に出て小さな庭を見ていたら、近くの林からカッコウの声が聞こえてきた。今年になって初めてのことだ。気持ちがほんの3センチばかり、弾んだ。家に入り、ひとりごとみたいに「カッコウ」ってつぶやいたら、家人は「もうそんな季節なんだね」といった。