言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

グラン・トリノ。

クリント・イーストウッド監督・主演。この作品が彼の遺作になるのではないかと思って、録画は大事にしてあった。いまでも、時折観ると、毎回、映画の展開とはまた違った感慨が押し寄せる。

人にも、神にも、家族にも心を開くことのなかった孤高の老人が末期を悟り、アジア系の少年をモチーフとした「未来」に、自分の気づいた大切なものを受け継いでいこうと決める。その大切なもの、は観客個々の人生観に委ねられている。

地下室から重いフリーザーを運び出すシーンが印象的だ。あまりの重さに、老人は隣家に住む少年に初めて頭を下げ、手伝ってほしいと願い出る。
最初、老人は階段の上に立ち、少年にフリーザーを下から支えることを指示する。少年は、自分の方が力があるといってそれを拒み、自分が階段の上からそれを引き上げ、老人が下から支えるよう説得する。
老人のプライドがそれを許さないが、しばしの沈黙のあと、自分が下に回る。このシーンが、映画の核となる(と思った)。

 

 

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※2009年公開

 

 

結末はいかにもアメリカ的ではあるのだけれど、それをエンターテイメントとして判断するのは早計である。
白人と黒人と黄色人種、宗教と現実、男と女の性、過去と未来、善と悪、貧と富、闘いと平和、健康と病、若さと老い、素手と銃──。
あらゆる矛盾と相違を受容しつつも、自分という「個」以外は決して信じないというアメリカ社会の闇が物語の根底に静かにうごめき、絶望と引き換えに、かすかな(ほんとうにかすかな)希望が提示される。


エンディングは、陽光に満ちた湾岸道路を「グラン・トリノ」がゆったりと走って、地平線の向こうに消えていく。運転するのは「未来」を託された少年。

映画が終わり、館内の照明がついても、しばらく席を立てなかった。何度、家で見直しても、生あたたかい、不均等な重さが身体にずっしりと残る。
が、同時に、前評判ほどの映画ではないという、冷淡な思いもよぎる。

 

古きよきハリウッドの歴史は、この映画で幕を閉じたのではないか。イーストウッドには、お疲れさまでしたと敬意を表したい。