言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

花を「いける」

道家から、こんな話を聞いたことがあった。


「自然のなかの一瞬一点を、
自分の姿として切り取る。それが花を『いける』ということ」



花の造形。
そこには、自分自身の投影がなくてはならない、というのだ。



「生かす」ではなく「いける」。


なんとも奥ゆかしいが、
凛とした厳しさのある、潔い言葉でもある。
ちなみに、
花を「いける」と表現する外国語を、私は知らない。

 


拾った情報を捨てに捨てて、主題を一点に絞り込み、
ひ弱な自分を怖々と投影しながら
対象を「いける」ことは、勇気がいる。


あらかじめ稀釈された情報を、
さらに水で薄めたような情報、ニュースばかりが目に付く。


どの新聞、テレビのどのチャンネルもほとんど変わり映えしない。
他社を牽制するふりをしつつ、
自社が傷つかないよう周到に計算をすることで
保護色を纏った情報は、情報発信者自身の投影が放棄されてもいる。



事件の当事者に群がる記者やカメラマンをテレビで見て、
みんなで渡れば怖くない的な報道を怖い、と思うこともしばしば。



情報を発信する者が
いたずらに権威や権力を振るい、そんな情報を安易に信じ込む社会は、
未熟といわれても仕方がない。
そうはいいつつも、「ねばならない」と偉そうに説きたい自分も、確かにいる。