言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

恐山。

青森県の恐山を一人で旅をしたのは、19歳の夏のこと。
当時住んでいた札幌から鈍行列車を乗り継いで青函連絡船に乗り
青森駅から大湊線に乗り換え、
現地でバスを降りた頃には、足腰がフラフラになっていた記憶がある。

目的は一つ。
小学生のときに亡くなった母方の祖母に「再会」するためである。
イタコのおばさんに「霊」を降ろしてもらい、
できれば話もしてみたい。そんなことを、真剣に考えて旅に出た。
リュックに大きなテープレコーダーを詰め込んで。
録音した祖母の声を、母や叔父叔母たちに聴かせたい。そんな思いもあった。

噎せ返るような暑く、湿った日。

 

日本三大霊場の一つ恐山は、
この世のものとは思えぬ荒涼とした土地であった。

草木の緑はほとんど見当たらず、
インクのようなどぎつい青を湛えた池、
鮮やか過ぎる朱色の橋、水子供養のための赤や黄や青色の風車、
そして黒い衣装に身を包んだ
イタコたちが道端に茣蓙を敷いて座り込み
亡者の声を聴こうという善男善女が、その前に列を組んでいる。

 


母方の祖母が苦手であった。
貧しい農家の出でもあり、
生涯きれいな、いや、普通の衣服を纏った姿を見たことはなく
訛りを含んだ貧相な話しぶりも、
子どもの私には、受け入れることが難しかった。
一度か二度、
旭川からわが家に遊びに来たことがあったが、
まだ幼稚園に通っていた私は顔を見るなり「帰れ、帰れ」と
祖母の背中を叩いたという。
泊まるつもりで来ていたはずが、
祖母は「いいんだ、いいんだ」と笑いながら、
旭川まで帰っていった。この話は、あとになって母から聞いた。
できることなら、生きている間に一言「ごめんなさい」と謝りたかった。


順番が回ってきた。
問われるままに祖母の命日と名前を伝え、
イタコのおばさんは、ウニャ・ムニャ・モニュとお経のようなものを唱える。
次の瞬間、少し声色が変わって
どうやら祖母の声らしきものが、その口から発せられるのである。

もとの声も、向こうから降りてきた祖母の声も、
どちらも津軽弁であった。
慌ててテープレコーダーのスイッチを入れて、マイクを近づけた。
いくら耳を澄ましても、歌のようにお経のように
流ちょうに唱えられる祖母の言葉は、わからない。
それでも、10に1つほどの割合で、
おまえの身体を見守っている、家族で仲良く暮らせ、
といった言葉が聴き取れた。

片手にマイクを持ったまま、訳もわからず、
ポロポロと涙が頬を伝っていった。
話の終盤にさしかかった頃、
「おばあちゃん、ごめんね」といってみたが、
イタコのおばさんの言葉は、
ンダンダ・ダビョン・ダビョンのようにしか聴き取れない。
そして、いきなり降霊の儀式は終わった。

それから数日間、津軽半島を回って帰途についた。
家に帰ると、わざわざ旭川からも親戚の人たちが集まっていた。
恐山で祖母の声を録音したということを、
母が親戚のみんなに知らせていたのだった。


集まった皆の前でテープを回す。
録音状態は悪くはなかった。
スピーカーから、
ンダンダ・ダビョン・ダビョンが再現された。
集まった誰もが、津軽弁を全く解せない。
録音の中味がウソかホントかなどは、どうでもいいことであった。


母を含めて父も叔父も叔母も、
ンダンダ・ダビョン・ダビョンを聴いて、黙したまま涙を流した。
泣いたあとの皆の顔は、晴れ晴れとしていた。


今日のように噎せ返るような暑い日は、
恐山のあの旅を思い出し、
祖母がすぐ隣にいるような気がしてならない。

 

大人たちが泣きたいときのために、過去の自分を赦すために、

イタコのおばさんがいてくれる。

ありがたい話である。