言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

新聞配達

鉄道官舎にいる頃のことだから、
まだ3歳か4歳のときのことだと思う。


ある朝、父の怒鳴り声で目が覚めた。
子どもながらに、また母との諍いか…と、
あきらめ半分、悲しい気持ちで起きあがると
父と母が寝間着のまま、窓に向かって立っていた。


窓の外には中学生くらいの男の子が、
父に怒鳴られ、泣きながら、しょぼくれて突っ立ってた。
新聞配達の少年であった。

あとで母に聞くと、家のなかを覗いていたようなので
気配に気づいた父が窓を開け、そこにいた少年を叱ったのだという。
売店に知らせたのか、少年は翌日から配達に来なくなった。
「泥棒だったの」と尋ねると、父は「きっと、そうだ」といった。

 


中学2年の3月。ちょうど、いま頃の季節。
春休みになるのを見計らって、新聞配達のバイトを始めた。
担任の先生は「来年は受験というのに」と反対したが
父も母も「いい経験になるだろう」と賛成してくれた。
たちの悪い親戚から、父や母に金の無心が続いていた時期でもあった。
少しでも家にお金が入るのは、
わずかながら家計の足しになったのかもしれなかった。

炭鉱町での新聞配達は、思ったほどきつい仕事ではなかった。
連なった炭住長屋に連続して新聞を入れていけば、
小一時間ほどで、持ち分は終わってしまう。


家にポストなんてものがまだなかった時代。
1軒1軒の玄関を開けて「しんぶーん」といって
家のなかに放り込んでいくだけである。


毎日続けていると、「ありがとう」と声をかけてくれる家と
そうでない家とがはっきりわかってきて
私は「ありがとう」といってくれる家では、
わざと恩着せがましく
「しんぶーん、ですよう」と「ですよう」分だけ、サービスをした。
返ってくる「ありがとう」の言葉は、気持ちのいいものだった。



売店には、同じ学校の仲間が何人もいたし
年をとったおじさんや高校にも行っていない
十代のお兄さんたちもたくさんいた。


知的な障がいを抱えた20代前半のお兄さんがいた。
このお兄さんは年に一度か二度、
発作を起こしたかのうに
新聞を橋の上から全部ばらまいてしまう癖があって
売店の偉い人が、毎日毎日「ちゃんと配れよ」と言い聞かせていた。
いまの時代だったら、
そんな過ちを一度犯しただけでくびになってしまうだろうが、
そういう人でも、みんなで支えて一緒に仕事をしていたのであった。

3年生に進級して、私は母のミシンの上で
以前よりもずっと勉強に励んだし、
そんな姿を不憫に思ったのか、父はよく赤マムシのドリンクを
買ってきては、寝る前、ミシンの上に、そっと置いてくれたりした。
新聞配達の仕事も一層楽しくなっていた。



「店の人もいい人だよ、新聞配ると
みんな『ありがとう』っていってくれるんだ」
ある日、父にそんな話をしたことがあった。
父はしばらく黙って、
あの日のことを振り返り「あの子、泥棒じゃなかったのかもしれんな」とつぶやいた。


私は「泥棒じゃないよ、泥棒じゃないよ」と、
勝ち誇ったかのように、
繰り返し、父に詰め寄ったことを覚えている。