言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

人と祈りのエネルギー

瀬戸内寂聴さんと

玄侑宗久さんの対談集『あの世 この世』(新潮文庫

のなかに面白い話のやり取りがある。

人は死んでもエネルギーになる、

という話である。

 

人は亡くなった瞬間、

体重が何グラムか減るのだそうだ。

アインシュタイン

「この宇宙の中のエネルギーの総量は一定だ」

という説に照らすと、

遺体から減った分の新たなエネルギーが、

創出されることになる。

 

なかには40グラムほど減るケースもあるが

仮に1グラム減った

エネルギーを熱量とすれば、

実に10の14乗ジュール。

とても想像がつかない数字だが

わかりやすくいうと、

25メートルプールの水529杯分を

瞬時に沸騰させるくらいの

エネルギーに相当する。

一瞬の光にすると、

太陽の432倍の明るさという。

 

40グラム減ったとすれば、その40倍。

だから、人が亡くなるそのときに

遠くにいる息子のところに

会いに行ったりするようなことも

物理的に可能なのではないか、というのである。

 

 

 

 

この話と一緒にして

いいのかどうかわはわからないけれど

ドイツ人の知人から

「祈りのエネルギー」の話を聞いたことがあった。

 

アメリカに移住した息子が

いつも母国にいる母親の健康を祈り、

願っている。

あとになって照合されるのだが、

ちょうど息子が

願ったり祈ったりする時間に

母親は必ず息子の夢を見る。

宇宙の総量のエネルギーのなかには

当然、生きている

人間のエネルギーも入っている。

だとしたら「祈りのエネルギー」も

(プールの話はしなかったが)

相当の熱量を

持っているのではないか、という話であった。

 

 

祈ることに、お金はかからない。

少しの時間と気持ちだけで済んでしまう。

誰かを恨み、将来に不安を描くことにも

お金はかからない。

同じく、少しの時間と気持ちだけで済む。

 

ただ、恨みを込めた願いや祈りは

必ず自分に返ってきて

自分自身を焼いてしまう、と

お釈迦さまがいっていた。

そんなのは怖いので、

弱虫で臆病な自分には、できない。

 

 

以前、お会いした

救急医療が専門のA先生が

こんなことを

話してくれたのを思い出す。

 

家族に愛され、

回復を祈ってもらっている患者さんと

そうでない患者さんとでは

同じ死に向かう過程、

逆に、回復に向かう過程でも

心の穏やかさが違うような気がします。

どうせ祈るのだったら

ついでではなく

本気で、誠実に、祈ることです───。