言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

コッペパン。

家から中学校までは、歩いてわずか3分ほどだった。家の前の道路をちょいと左に行って、そこから右を眺めればもう正門。あまりの近さに、いつも遠回りをして通学していたほどだ。

その遠回りの道筋に、A子ちゃんの家があった。幼稚園のときからの幼なじみ。でも、小学校に入ってからA子ちゃんは病気がちになって、中学に入ると1カ月単位で休むことも少なくなくなった。


彼女が休むのは、寂しくもあり、うれしくもあった。寂しいのは当然のこととして、うれしいのは、給食のコッペパンを届ける役目になったからだ。

給食のコッペパンは、昼時間にはもうカサカサになってしまった。放課後になるとより乾燥してかたさを増し、家まで届けたとしても、蒸かすか焼くかしなかったはずだ。それでも当時の学校では、休んだ子どもには必ず、近所の子どもが給食のコッペパンを届けるようにしていたのである。

A子ちゃんの家は、青いトタン屋根の古い木造で、玄関の引き戸はいつだってカタカタして、開閉には相当の力が必要だった。冬は特に、引き戸のレールが凍って大変だった。
その引き戸を開け、声変わりしたばかりの声をわざと低く絞って「ごめんくださーい。パン置きまーす」といって玄関土間の脇の靴箱の上に、コッペパンを置くのが日課だった。


奥から、A子ちゃんの母さんが出てきて「ダイちゃん、いつもありがとう」といってくれることもあれば、誰も出てこない日もあった。そんな日は家族のみんなが働きに出ていて、A 子ちゃんだけが布団に寝ているはずであった。

A子ちゃんは、美人で有名だった。二人の兄さんもハンサムで、週に何度か行く銭湯で、兄ちゃんたちとよく出くわした。上の兄ちゃんは無口で「おす」というだけだったが、下の兄ちゃんは「いっつも、すまねーな」といって、コッペパンを届ける私のことを気遣った。

A子ちゃん一家は、中3になってすぐの頃、どこかの街に引っ越していった。家庭の事情で、時々近所に子どもらの泣き声が聞こえることがあったと、あとになって母から聞いた。

A子ちゃんが引っ越してからは、コッペパンを届ける役目から解放されたものの、遠回りはせずに、最短コースで通学するようになった。寄り道のないことは、こんなにつまらないことだと知った。

しばらくたって、A子ちゃんから手紙が届いた。それから5年間、文通が続いた。その文通も、彼女が二十歳の若さで結婚するのをきっかけに、途絶えてしまった。

実家に帰るたび、中学校まで歩いてみた。遠回りをして。砂利道からアスファルトに変わった細い道をたどり、炭坑の閉山後、全国に散った友人たちの面影を道に重ねてみる。ズリ山は雑木に覆われ、A子ちゃんの借家も友人たちの炭坑長屋も跡形なく、原っぱになった。一人として友人のいない故郷は、漠として寂しかった。

A子ちゃんはいまも、人生の節目節目で夢のなかに出てきてくれる。あのころ、コッペパンを届けてくれたお礼を、律儀に伝え続けてくれるのだろうと思うことにしている。