言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

大工さん。

サハリンで生まれ育った祖父は大工をしながら時に漁師をし、父を含む8人の子どもを育てた。ほんとうは、絵描きになりたかったそうだが、絵だけでは食うことなどままならない時代。大工として働きながら、時間を見つけてはカンバス、そして襖や屏風にまで絵を描いた。戦前戦後の貧しい時代、よくぞ画材などにお金をかけられたものだと思う。

 

家具職人としても腕を振るった。実家には、この祖父が制作した衣装箪笥があり、実家を解体するまで母が大切に使っていた。


そうした血筋を引いてか、長男と五男が画家になり、四男が大工となった。三男にあたる父は、面白くもなんともないただの給料取りだった。子どもの頃の私は、そんな父より、祖父や叔父たちの話を聞き、一緒にいる時間のほうがずっと好きだった。

 


しかし、祖父の晩年は惨めだった。70歳過ぎまで建築場に足を運んだが、次第に足腰は弱くなり、重いものを運ぶのも難儀となって、あまり動かずに済む、鉋がけを任されることが多くなった。その鉋も、目が遠くなり、細かな作業が次第に難しくなっていった。


祖父がいる現場が近くにあるときは、よく遊びに行った。大工さんたちが働いているところを遠目で眺めているのが好きだった。

 

ある冬の日の作業場で、鼻水が手元まで伸びているにもかかわらず、必死で鉋がけをする祖父の姿を見たことがあった。じいちゃん、もうだめだ──と、そのとき感じた無念の何倍もの無念を、祖父自身が味わっていたはずである。あとで大工の叔父に聞いた話だが、思うように腕が動かなくなってしまった祖父は、悔しさのあまりに、鉋がけをしながら、よく涙を浮かべていたという。あの日の祖父も泣いていたのだろうかと思うと、少し哀しい。

 


施主や工務店の社長とお会いする機会はあっても、大工さんたちが働く現場にうかがうことは、多くない。きのうは、A町の建築現場。寸法を測り、材料を切ったり、釘打ちしたりと、動きに微塵も無駄がない。危険が伴うだけに、どの場面でも目つきは真剣。

墨付けの現場にも、何度かうかがった。木材に仕口や継ぎ手のための印を付けていく作業である。木組みの精度に直接影響するだけに、ここでも少しの狂いも許されない。静まりかえった山里の作業場で、一人黙々と作業に打ち込む大工さんは神々しく見えてくる。

鉋がけを8割程度で手抜きをすると、全体の作業効率は10倍以上悪化するという。反対に、手抜きなし、10割に近い作業を徹底すると、効率は期待の10倍以上となる。手を掛けた作業の大半は、いずれ建材に隠れてしまうが、それでも技を8割で留めるか、10割をめざすか。それは職人個々の嗜み──という話を、熟練の大工さんから聞いたことがあった。


「目に見えない仕事だからこそ、手は抜いてはならない」とは普段、あまりもの言わぬ祖父が、よく口にした言葉であった。無口だったからこそ、その言葉は闇夜で閃く匕首(あいくち)のような鋭さで、子どもの私にも突き刺さってきたのだろう。


大工さんは、損な仕事だ。どんなに腕をふるっても、技の大半は、見えないところに隠れてしまう。その見えないところで、いつも、家と人を支えている。自分も、そんな仕事をしていきたい。






聖徳太子の時代から使われてきたというサシガネを使っての墨付けの作業は、どこか荘厳ですらある。