言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

愛別離苦。

この四半世紀、おつきあいいただいているA先生の本、再読。誰より多忙な先生だが、これまで打ち合わせや原稿のやり取りで約束が守られなかったことは一度もなかった。人に寄り添う、人を敬う――を医療の現場のみならず、あらゆる場面で実践されてきた。

 

家での看取り、家族との別離――。書かれているのは、おのずと、別れの話が多くなる。自分自身、この1年で、大切な人を何人か失った。この時期に、こんな巡りあわせ。何度も校正したはずだが、改めて、はっとさせられる内容がたくさんあった。そういえば、読者として読んだことはなかったかもしれない。

 

愛別離苦(あいべつりく)

怨憎会苦(おんぞうえく)

 

前者は、どんなに愛する人でも、いつかは別離しなければならないという苦。後者は、恨み憎む人にも会わなくてはならないという苦。お釈迦さまの言葉である。人間、生きている限り、この苦からは逃れることはできないという教え。

 

「怨憎会苦」=は、聖人ぶって、どんな人でも愛さなくてはならない、という意味ではないらしい。好きでも嫌いでも、尊敬できても軽蔑しても、取りあえず相手をほとけさまだと思って拝んでおけ、という意味が含まれる。そのくらいの「行」ならトライしてみようと思いもするが、実は「そのくらい」が難しい。人との別離は、生涯、慣れることなどありえないという、妙な確信もある。結局、いつも四苦八苦。

 

 

人生の意味を見いだす方法としてフランクルアウシュビッツの収容体験をつづった「夜と霧」著者)は次の三つを書いている。

①創造価値 何かを行うことによって実現される価値のこと。

②体験価値 何かを体験することによって実現される価値のこと。

③態度価値 自分自身ではどうしようもない状況に直面したとき、そこでとる態度によって実現される価値のこと。

 

人生が終わるその瞬間まで「意味」は絶えず自分に送られ、「発見される」のを待っている。

 

父を亡くしたのは遠い昔の話。あの別離に、どんな「意味」があったのかを、いまもなお問い続ける自分がいる。父が生きていた頃よりもずっと、内に生きる父との対話が多くなっているのは不思議なことだ。

 

親は、決して、子の傍からいなくなることはない。肉体がうせてもなお、離れることなく、黙ってそばにいてくれる。ありがたいことだと思う。