言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

掌(たなごころ)

〇日

建築家のAさんとお会いする。
ふとしたことから、音の話になった。


わずか5メートルほど先に
蒸気機関車が走る鉄道官舎で生まれ育ったことを話したら、
Aさんの生家のすぐ裏手も駅だったという。
夜中に走る機関車の音は決して雑音ではなく、音の原風景。
そうだよねえ、と相成った。

「この間ね」とAさんの話は続く。
土地から探してほしいという施主と会った。
条件が「お寺の鐘の音が聞こえる場所」だったという。
音から家を考えるなんて、素敵な話だ。そうだよねえ。

時間をかけ、理想のデザインで実現した二世帯住宅があった。
が、夜中に帰宅するお孫さんの階段をのぼる音、
シャワーの音に耐えかねて、老夫婦は数か月でアパートに移ってしまった。
音は懐かしい原風景ともなるが、大きなバリアともなる。
そんな事例を、いくつもみてきた。

夜の静寂を切り裂くようなポーッという機関車の汽笛。
レールの継ぎ目が規則正しく振動する音。
その音もまた、
冬になると、いったん土に沈んだ音が雪で覆われ
夏の「ガターンガターン」が「ツターンツターン」と鈍くなる。


母の奏でるミシンを踏む音、
結核だった叔父のそばに置かれたラジオから聞こえてくる相撲の中継。
記憶をたどれば、懐かしい音はいくらでもある。
それらが雑音か心地よいかは結局、人と音との関係の色合い次第。

 

 

〇日

仕事と仕事の合間に、ぽかんとした空白ができることがある。
その時間、罪悪感のようものを感じてしまうのは、悪い癖だ。
ぼんやり休んでいればそれでいいものを、
金持ちでも何でもない自分が、こんなに暇でいいのかと、
あれこれと考え、落ち込んでしまう。


仕事の現場でも、ほかのことを考えたり、ぽかんとどこかを眺めたり。
主題から眼をそらし、意味もなく
床や天井や本棚を眺めたり、食器棚に並んだお皿やカップに目を移す。


見つめないで眺める、というと妙かもしれないけど
意識的にテーマから眼をそらすことで、
意外と大きな発見に結びつくことは少なくない。

 

だけど、今日はなんにも収穫なし。

 

 

〇日

日常的な仕事の場面ではあまりやらないが
旅先や飲み会のあとでは
必ずといっていいほど、相手と握手をする。

 

手を差し出すのは、自分からだ。


手と気持ちには実は深い関係があって
掌(タナゴコロ)の言葉も
もとはといえば「手の心(テノココロ)」に由来するという。

 

手を通じて気持ちを通わせるなんて、素敵なこと。
互いに差し出した手を、しばし黙って、握り合う。

 

不思議なもので、
その一瞬だけは、両者とも言葉を呑み込んでしまう。


そこに、すっと流れる、正直で爽やかな時間が、好きだ。
顔を見上げて、やさしい目がそこにあると、もっといい。
寂しいけど、またねと言葉を交わす瞬間も、すごくいい。