言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

客観なんかない。

図書館。インターネットが普及する前までは、資料探しのためだけに週に3、4度は通いつめていた。

 

借りられる本は5冊までだが、用事があるのは、ほとんどが一般書棚にはなく、資料室に納められた「貸し出し不可」の本ばかり。資料をデスクに山積みしては、ページをめくり、付箋を貼ったものを一枚一枚コピーしてもらう。その作業のためだけに開館から閉館まで終日、図書館で過ごすことも少なくなかった。

 

本を借りる場合は、資料もしくは写真集などの大型本のみと決めている。読書のための本は、必ず購入し、自分だけのものとして手元に置きたい、そんな意地がある。

 

持ち帰った本は、じっくり眺め、ときめいた本は注文する。この日選んだ本は────『荒野の庭』(丸山健二)『アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集 ポートレイト 内なる静寂』『ユージン・スミス写真集 1934-1975』の3冊。あと2冊借りることができたが、この3冊だけで重さが5、6キロくらいになったので、やめた。そして、後日、注文。

 

 

 

カルティエ=ブレッソンの「私が訳したいのはその人格であって、表情ではない」という言葉は、現場でも大切にしてきた言葉である。「はたして本当に見せるべきものを切り取れているのだろうか。カメラを構えながら、私たちはつねに自分の行動を冷静に判断する必要がある。(略)慌てて機械的に、機関銃のようにシャッターを切ることは避けたい。余計な下絵は記憶を妨げ、明確な全体像を見失うだけだ」という謙虚さ、客観性もブレッソンらしい。

 

ユージン・スミスを知ったのは、30年以上も昔のこと。水俣で撮影された「湯船の中の上村智子ちゃん」(写真下)がきっかけであった。淡い光が射し込む湯船のなかで、母に抱かれながら、目をギリッとひんむいて、別の世界を凝視するかのような智子ちゃん。この一枚が、世界に水俣を知らしめた。

「客観なんてない。人間は主観でしか物を見られない。だからジャーナリストが目指すべきことは、客観的であろうとするのではなく、自分の主観に責任を持つことだ」という言葉は、私たちが常に胸に留めておくべき言葉である。

 

 

『荒野の庭』は、丸山自身による写真の質もさることながら、添えられている文章の品格に魅せられた。機材はCONTAX。ツアイス(レンズ)ならではのこってり感と作為性のある色のりが、現実を幻想的に写し取る。作家の庭をカメラで切り取っただけの写真集といってもいいが、添えられている短文は読む者の魂を射抜くようで怖くもある。

 

あなたは本当に自由だったのか。

あなたを束縛してきたのは、

結局、あなた自身ではなかったのか。

 

白い花を演じられるのは

白い花だけ。

赤い花を演じられるのは

赤い花だけ。

 

人は花に咲けという。

花も人に咲けという。

 

最もバラらしいバラが問う。

「最も人らしい人だったのか?」

 

 

こんな言葉を搾り出せるようになるまでには、あと100年はかかりそう。学び続けるほかはありません。