言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

ありがたき不思議。

○日
去年1年の郵便物と、この10年間の名刺を整理する。郵便物はゴミ袋1つくらい。名刺は2枚の大きな紙封筒に分けて入れ、ガムテープで封をして捨てる。事業ごみなので、他のゴミと一緒に専門の業者に運び込まなければならない。

名刺の大掃除は4度目。以前は、1枚1枚目を通して捨てるものと残すものを選別していた。今回は数十枚だけを除いて、全て破棄。大半の人はメールのアドレス帳に保存されている。


大雑把だが2000枚弱。初対面の人だけで、年間平均200人に会ってきた計算になる。こんなに多くの方々のお世話になって、いまの自分がある。振り返ると不思議な気もするが、確かに、お一人おひとりと時間を過ごし、多くを学んできたのだった。整理の前に、記念写真。

 

 

〇日

午前、A教授と、ひょんなことから「おもて・うら」の話になる。物事には「おもて」と「うら」があって、顔は「面(おもて)」で、心は「うら」。「うら寂しい」の「うら」も、心の働きを意味するのだという。

 

「日本人特有の『うら・おもて』は、心(うら)が先ですね」

「確かに、あまり『おもて・うら』っていわないようですね」

「恨む、というのも『心(うら)』なんでしょうか」

「そうらしいです」

「言葉のこと、たくさんご存じでウラやましい」

「その『羨む』は、『心(うら)病む』こと…。いけません」

「そうなんですか」

「それに『裏切り』は、相手の『心(うら)を切る』こと…」

 

へえ、はあ、ほう…と感心してばかりの小一時間。言葉が、こうした円環的な秩序を持っていることに気づくと、仕事はますます混沌、混乱し、最後は「うら悲しい」だけの自分となりそう。

 

 

 

〇日

B子さんとお会いする。

「インターネットで、調べてほしいことがあります」。献体のことだという。「誰の?」と尋ねると「私の」。

 

母親が亡くなったあと、独り身の自分に何かあったときのために、手続きをしておきたいという。「死ぬときは誰にも迷惑をかけず、誰かのお役に立ちたい。葬儀もいらない」。いつもは温和な表情が険しかった。

 

──若きにもよらず、強きにもよらず、思い懸けぬは死期なり。今日までのがれ来にけるは、ありがたき不思議なり『徒然草(第百三十七段)』

 

死はひたひたと、背後から迫ってくる。少し悲しかったが、この人たちと出会えたありがたさは、それを超えている。みんな、死んじゃ、いやだ。

 

先日引退した、スケートの小平奈緒さんが大切にしているという言葉をメモしてあった。ガンジーの言葉である。

────明日、死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。