言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

やり残したことは。

〇日

夜中に目が覚めることが増えて、困っている。深夜の居間に一人でいると、ネコがすっと膝にのってくる。どうしたの、とも尋ねることなく、そのまま膝のうえで寝てしまう。

 

深夜のラジオから流れてきた「オワリはじまり」。懐かしい。イントロだけで、ブワッと涙が噴出してきた。きついなあ、と思う。癒してほしいなんて気持ちが、まだどこかに残っているのか。

 

 

もうすぐ今日が終わる やり残したことはないかい

ありふれた日々が 君や僕の胸に積もって光る

 

もうすぐ今日が終わる やり残したことはないかい

 

今 動き始めたものや もう二度と動かないもの

今 灯り出した光や 静かに消えていく光

 

もうすぐ今日が終わる やり残したことはないかい

かけがえのない時間を 胸に刻み込んだかい

 ♪ (オワリはじまり/かりゆし58 抜粋)

 

 

〇日

変わり続けていくこと。それが、現役。それができなくなったら、退役。有名な評論家という人が、そんなことを書いていた。だとしたら、自分はとっくに、退役の部類に入る。

深めることすらできずに、変革などあり得ない、と思ってきた。ずっと。「そうはいっても、経営、経済、利益。基本じゃないですか」。いつか、ここに来た銀行の人も、ニヤリと笑いながら、そんなことをいっていた。儲かっている奴が勝ちなのだ、と顔に書いてあった。

彼らは間違っていない。聞こえてくるのは、進め、変われ、迷うな、考えるな、儲けろ――といった掛け声ばかり。変わることなどできそうもない。迷いっぱなし、揺れっぱなし、そのまま退役。

 

 

〇日

午前、陶芸作家の工房で打ち合わせ。帰りのクルマで、ラジオ。子どもの電話相談だった。こんな内容だった。

 

「いのちは、どうして一つしかないのですか」

「あなたは、いのちが、二つほしいのですか」

「はい、二つあったらいいと思います」

「でもね、一つしかないんだなあ」

「うん…」

「一つしかないものだけど、自分だけのものじゃないんだよ」

 

「人って、死んだら、どこに行くのですか」

「どうして、そういうこと考えるようになったの」

「5月におじいちゃんが死にました」

「科学的にいうとね、いのちのあるものは、いつかみんな壊れて、土に還っていくんだよ」

「へえ」

「そして、土のなかでも新しいいのちに引き継がれて、そのいのちは、ずっと続いていくんだよ」

「ふーん」

「いまのは科学的な話なんだけど、私はね、あなたが心のなかでおじいさんのことを

考えていると、おじいさんは生き続けていると思いますよ」

 

正確ではないが、こんなふうなやりとりが続いた。先生たちは、すごい。瞬時に小さな哲学者たちを納得させてしまう。

 

「なぜ?」を大切にできる人は、素敵だ。わからないことに蓋をしたまま大人になりたくないなと、こうした番組を聴いていて、いつも思う。