言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

二・五人称。

午前、デザイナーのA子さんのアトリエで打ち合わせ。本のページ割について「全部、お任せします」。わかりました、といって打ち合わせは終了。この間、わずか3分。

お茶をいだたきながら、ふとアトリエの隅に目をやる。描きかけだったパネルの作品が逆さになって置かれている。

「どうして、逆さなんですか」

「気に入らないから」

「気に入らないと、逆さなんですか」

「どこが悪いのか、逆さに眺めて考えているんです」

 

 

夕刻、B先生宅。校正に校正を重ね、8校とまでなった。自らを抑制し、客観視する姿勢が文章の隅々にまで貫かれている。大学者の、詰めの凄みを見せていただいた。使用した写真を返却する。「毎日、想定外のことばかりです。ということは、自分たちの詰めが、まだまだ足りないということ」。B先生はそういって、ため息をついた。「学問なんて、いつも『まだまだ』なんですよ」。

 

 

深夜3時に目が覚める。「夢か」と思った途端、夢の内容は忘れている。外はまだ暗い。気合いを入れて、また寝ようと試みるが、叶わないときには、すっくと起きて仕事場に行く。

ラジオをつける。広島の被爆者が、淡々とこれまでの歩みを語っている。アナウンサーの導きは、これでもかというほどに簡潔かつ的確で、語り手のなかに眠る言葉を静かだけれど、かなりの強引さで引き出していく。ああ、上手だなあと思う。

気がつくと、両者の目の前に言葉の束が並べられている。その人だけど、その人ではない。初めて出会う言葉だけれど、その人自身の塊。一見相反するものを同時に顕在化させるインタビューの上手さ。

 

A子さんもB先生も、自らを「編集」し続けている人だ。努力というのとは、少し違う。自分を突き放して俯瞰できる、視座があるか否か。もう一人の自分が、自分を分析しようする試みともいえる。一人称でも二人称でも三人称でもなく、いわば「二・五人称」。この視座こそがカナメでもある。人生、「編集」の繰り返し。今日、お二人に、いえ、ラジオを含め三人の方々に教わったこと。