言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

あきらめ。

〇日 気がつけば、11月も後半。大切な人との別れ、その別れが人との再会を導いてくれるなど、そんなことの繰り返し。思い付きで夕刻の飛行機で遠出をしたり、深夜、懐かしい場所を徘徊したり、意味不明のこともしたい放題。ただ、どんな街の、どんな人に会っても、記憶に刻まれない、そうした場と時間が増えている。

 

〇日 棚がいっぱいになると捨てる本を選び、何年か後にまた同じ作業を繰り返す。収納する空間を増やしてはならない。空間、物欲の制限とともに、生活が成立するのだと自分に言い聞かせる。日本の家は、収納を多くしてモノを増やす(隠す)悪循環から逃れられずにいる。「誠実をもって従えば必ず誠実の報いが画面に現われ、愛を込めて描けば、必ずその反応が表れてくる。絵画はなんという正直な生き物でありましょう」(三岸節子・画家)。この言葉は、仕事にも暮らしにも、人間関係にも当てはまる。

 

〇日 取材を兼ねた旅をキャンセル。2カ月前から準備を進めてきた。台北経由、バンコク往復のオープンチケットを購入。体調と天気に配慮しながら、ナーン(タイ)、ナコンパノム(同)、ペナン島(マレーシア)、ホーチミンベトナム)、シェムリアップカンボジア)を巡る予定だった。随所で豪雨や土砂崩れが発生していることもあってか、心が躍らない。西洋には、日本が行く先が見える。アジアには、日本が忘れてきた記憶が生きている。世界中どこに行くにも、国内2泊の荷物と同じ7キロ未満(機内持ち込みのみ)で荷造り。パンケーキレンズ40mmf2.8 本体89g)も買い足したのに。せっかくなので、家の前の公園の落ち葉ばかり撮っている。航空券のキャンセル料は30ドル、Agodaはゼロ。

 

〇日 A市の障がい者(知的)施設。今回は、Bさんの案内に甘える。目が合うと、小さくキャッと叫んで、顔を赤らめる少女、満面の笑みで駆け寄り、私の頭を「かわいいね」となで回す青年。年齢層も障がいのタイプもさまざま。以前、Bさんが、こんな話をしてくれた。「障がい者と健常者との違いってわかりますか。彼らは自分の弱さを隠せない。私たちはいつも上手に隠すことができる。そんな程度の差でしかない」。何もかもをさらけ出せば、自分は、どんなだろう。自分の狡さが恥ずかしくなる。

 

〇日 写真家のC先生から電話。コロナ前にお会いして以来のごぶさた。群れない、一人が好きな人。この人の目標は、この人のなかだけにある。孤独だけれども一人ではない、が分かり合える関係は心地よい。知り合ったのは確か、市内の美術館。あの時期も、迷いっぱなしの日々を送っていた。偶然はいつも必然的に現れる。運命の人は、探すのをやめると現れる。近況を述べ合い、再会を約束する。

 

〇日

原稿用紙を買いに文房具店。「原稿用紙、下さい」「こちらにあります」「縦書きの下さい」「原稿用紙って、ほとんど縦書きですけど」「真ん中で折れているの、いやです」「じゃあ、こちらは?」「10行のはいやです」「じゃあ、真ん中が折れてなくて、400字詰めだと、これかなあ」「それ、いいです」「(レジで)はい、2200円です」「え…」。500円くらいで買えると思っていた。財布には3000円しかない。ややうしろ向きで財布を開き、やや声を太く、低くして「それ、いいですね。はい」。いまさらなんで、原稿用紙なのか。再読を繰り返してばかりだが、何度読んでもアタマに入らず、メモ帳に書き写すところばかりが増える。いっそ、1冊まるごど書き写してやろうと決心。仕事の合間を縫ってだから、1年かかるか、2年かかるか。高価な原稿用紙200枚。とはいえ、24時間後にはもう、自分の字が判読できない。自分の字が、世界でいちばん読みづらい。