言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

末期(まつご)の眼。

〇日

息子が小学生の頃から育ててきたビワがある。買ってきた果実からとった種を鉢に植え、何年もかけて1メートルくらいの背丈にした。元気のよさそうな葉をとり「ビワの葉エキス」を作ってみた。自然食の本に書いてあった。

1.古くてかたくなったビワの葉を選んで、きれいに水で洗って細かく刻み、市販のエタノールに漬ける。

2.使用する葉は、エタノールの半分ほどの量。

3.冷暗所に置き、1週間ほどするときれいな濃い緑色に変わる。これが「ビワの葉エキス」。

アトピーやあせも、皮膚病、虫さされなどには水で半分に割って、脱脂綿などで患部に塗り込む。肩こりや腰痛、身体の痛みには洗面器に60℃ほどのお湯を用意し、それにエキスを大さじ2杯。患部にはエキスを塗っておき、お湯に浸して絞ったタオルで湿布する。冷めたらタオルを取り替えながら、20分ほど続ける。

ビワの葉を使った療法の歴史は古い。お釈迦さまの時代から仏教医学のなかに取り入れられ、日本では聖徳太子が創設した「施薬院」で、ビワの葉を使った治療の記録が残っている。

ビワの葉に含まれるアミグダリンという成分が、細胞のなかまでとけ込み、がん細胞までも健康な細胞にかえるほどの力があるという。自然の力は、ありがたい。

 

〇日

この数カ月、また、深夜に目が覚めるようになった。この日も夢を見て、目が覚める。午前3時。眠ろうとしたが、眠れない。いったん起きて、仕事場で眠たくなるまで待つ。

夢を振り返る。光も闇も音もない空間に、ふんわりと浮かぶ握り拳ほどの塊。それはどうやら「ものごと」という名の塊らしい。そっと手を伸ばし、片手や両手ですくい取っては、いつの間にか自分の横にいた人に差し出す。人といっても、顔も体形もわからない気配だけの存在。塊を受け取ったその人は、こういうのだ。「この半分でいいのです」。

声ではなく、波動のようなメッセージ。意味がわからぬまま、また空間に浮かぶ「ものごと」という塊を手ですくっては、その人に差し出す。その都度「半分でいいのです」という答えが返ってくる。半分、半分、半分…。自分のなかにある闇の世界に、この言葉だけが梵鐘のように響き渡る。

白んでくる空を窓越しに眺めながら、考える。半分でいいもの。食事、洗濯や入浴の回数、仕事、日々関わる人の数、照明の明るさ、家の面積や家具、メールや電話など通信の回数、テレビを見たり本を読む時間、出張、言葉、思考、たんすに眠る衣服、クルマの走行距離、メモ、カメラのシャッター数。半分どころか、いまの数分の一で十分な「ものごと」は身の回りにあふれている。外が十二分に明るくなってから、少し眠たくなって床についた。

 

〇日

この日も、深夜の3時に覚醒。仕事場でメモを開く。「瀬戸内寂聴 遺(のこ)したい言葉 」。テレビの番組を見ながらメモしたらしい。川端康成の言葉を引用し「末期(まつご)の眼」という話をされていた。

どんなものでも「末期の眼」で見るようにすると、美しく見えてくる。一期一会にも通じるが、人でも自然でも芸術でも、その機会を最後の機会と思って見たり聞いたりする。これが最後に眺める景色か、最後に話す人か、と思ってお会いする。そういう感覚を大切にしたいという意味ではなかったか。難しいそうだなあ、と思ってメモをしたのだった。

河合隼雄さんのメモもとなりにあった。「男も女も、そして家族も、いつだってCrisisの上を渡り歩いている。そのCrisisには、危機という意味のほかに分岐点という意味もある」。分岐点は尾根でもある。渡り切れるか、あるいは、どっちかの尾根に落下してしまうか。平凡で退屈に思える日常も、ほんとは、いつ落ちてしまうかわからない尾根のようなものかもしれない。

 

〇日

沖縄関連の調査を始める。同県A社から資料を取り寄せる。岡本太郎「沖縄文化論」も常に身近に置いて再再読。どのページも折り目と鉛筆線だらけ。新しいのを買わないと。「重圧を与え続けると、バネの弾力がなくなるように、多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる」(「読書について」ショーペンハウアー 光文社古典新訳文庫)。1冊を繰り返し読むというセオリーのまねっこ。何度読んでも頭に刻まれない脳みそ。いやになってしまう。

 

〇日

年末は、客人が増える。自分からは出て行かない性分だし、事前に連絡があると、大抵は「挨拶など、来なくていいから」といってしまう。そんな歪んだ性格を知る客人たちが、アポなしで訪ねてくる。もちろん、よほどのことがない限り、来ていただいた方とはしばしの「喫茶去」。人並みに「今年もお世話になりました」と挨拶をし、コーヒーをすすりながら1年を振り返る。

「喫茶去」とは「せっかくいらしたのだから、難しい話は抜きにして、まあ、お茶でもいかが」といった意味。「どんな方でも、わざわざ訪ねてきた人には、お茶でもどうぞと、声を掛けるものよ」と、昔、お世話になったヨーガの先生に教わった。深く納得し、以来、実践しつづけている。

「喫茶去」と同じく「挨拶」も禅から派生している言葉だそうだ。挨は押す、拶には迫るという意味があり「一挨一拶」(いちあい いっさつ)、つまり「ひとつ押して、ひとつ迫る」。こうした真剣な問答のやり取りを通して、互いの悟りの深さを測るのである。

誰かと挨拶をするときには、ひょっとして、この人と会うのはこれが最後かもしれない、という気持ちをどこかに潜めて、言葉を掛ける。相手さんに重たくならないように「末期(まつご)の眼」で、というところが難しい。