言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

福引き。

子どものころ。欲しくて欲しくてしょうがないけど、買ってもらえなかったもの。レーシングカーのセット。曲がりくねったコースに2台か3台のレーシングカーをリモコンを操作して走らせ競う玩具だ。


お正月に百円札1枚のお年玉しかもらえなかった時代に、1500円か2000円。お金持ちの友人の家にはそれがあって、私は、小学校の高学年になるまでそこに通い詰め、遊ばせてもらった。クイーンと安っぽい音をたててカーブを曲がるときのレーシングカーは、おしっこがちびるほどカッコよく、友人のそれとレースをして勝とうが負けようが関係ないのだった。

もう一つ、欲しかったのが、B29爆撃機のプラモデル。銀色に鈍く光るひょろ長い機体は、子どもの自分にはなぜかカッコよく見えた。こちらは何千円もするものではなく、近所の商店でも買えるものだった。それでも当時で200〜300円もして百円札1枚では手に入れることはできなかった。

正月、父に商店街の福引きに連れて行かれたことがあった。何かの用事のついでに、母がずっと集めていた福引きの券を持たされたのだ。赤一色で印刷された福引き券の束はなかなか荘厳で、子どもの自分でも、これだけ引ければ当たるんじゃないかと、ひそかな期待を抱いていた。


父はギャンブルや占い、宝くじなどのたぐいには一切関心がない人で、福引きの券をもらってもその場でグシャと丸めて捨ててしまうタイプだった。その血筋は私自身も引き継いでいて、賭け事はもちろん、スタンプカードやポイントカード、宝くじにも一切興味がない。

福引き所は大混雑だった。時折、チリンチリーンと金が鳴り響き、その都度、おおっという声とともに、列をつくる人に素朴な笑顔が浮かんでいた。父はというと「おまえ、一人で行って来い」といって列の向こうでタバコを吹かしていた。

ようやく私の番が来て、券と引き換えにガラガラ福引きを回す。一回目も二回目も玉は出てこない。「はい、もう一回、ゆっくり回してごらん」というおじさんの言うとおりにすると赤い玉が1個、ポロンと出てきた。

 

二回目も三回目も赤い玉で、いわゆるスカ。確か五回目くらいに、白か黄色の違う色の玉が出てきたとき、おじさんは「おっ」といって、手元の鐘を手にとって、チリンチリーンと、大きな音で鳴らした。5円玉のつかみ取りが当たったのだ。

列の向こうでタバコを吹かしていた父も驚いて、私のところまでやってきた。福引き所には透明なプラスチック製の百円札の箱、50円玉の箱、10円玉の箱とあって、その隣に5円玉の箱が並んでいた。父は顎を5円玉の箱の方に向けて「おまえ、やれ」と顎を向けた。


手を入れる口は上手に狭くできていて、父は瞬時に、子どもの手の方が有利だと計算したに違いない。おじさんが「さあ、いっぱい掴んでよ」と大きな声で叫ぶと、周囲の人たちが一斉に私たちを取り囲み、固唾をのんで見守っている。父はもう一度、顎をふいっと箱の方に向けた。

私は慎重に狭い穴に手を突っ込んだあと、小さな手を思い切り開き、ありったけの5円玉を掴んだ。ところが、子どもの手でも膨らんだ拳を穴から出すのは難しく、しょうがなく、箱のなかに何枚かを落としてようやく、5円玉の塊を外に出したのであった。
私たちを取り囲んだ知らないおじさん、おばさんからまた、おおっという歓声があがって、なかにはパチパチと拍手をする人もいた。

確か、180円とか190円かそこらで、200円にも満たない金額だった。それでも百円札のお年玉でも大喜びしていたのだから、子どもの私にとっては宝くじの大金が当たるに匹敵する大事件だったのだ。


安っぽい紙袋に入れられたお金を父に渡すと「何でも好きなものを買え」という。迷わず、B29のプラモデルがほしいと父にせがみ、父は商店街でそれを買ってくれた。同じ店で、父は妹にと、あまりかわいくない顔のお人形も買った。

黄色にシルバーの機体がデザインされたプラモデルの箱は高級感に満ちて、もう一生、レーシングカーのセットなどいるものか、と思ったほどだった。家に帰ってすぐに箱を開け、その日のうちに機体を完成させた。日本中を焼土化させた爆撃機だが、子どもの私にとってはそんなことなどおかまいなしで、できあがった機体をもって、ブーン、バババババッと狭い家のなかを走り回っていた。おとなしい妹は、茶の間の隅っこで人形を抱き、ずっと髪を撫でていた。

父も母も、その日は珍しく、やさしく、しあわせそうな顔をしていた。そんな二人の顔を見た私はというと、いっそううれしくなって、バババババッ、ブーン、ババッと、機体を持って狭い家のあちこちを走り回った。最後には母から「うるさい!」と怒鳴られ、内職の洋裁で使う竹の物差しでアタマをカツンと一発叩かれたが、それでもめげずに、いつまでも、父と母のまわりをババババババッ、ブーンと回っていた。