言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

継ぎ目や目地。

寅さんの映画を観ていると、団子屋さんの裏の印刷所の職人をつかまえて「おい、植工(しょっこう)たち!」といった言葉が頻繁に出てくる。妹のさくらさんのご主人も実は植工だった。

いまでこそ、オフセット印刷が主流になったが、40年ほど前までは、どこの印刷会社でも活版印刷が残っていた。職人さんが鉛でできた活字を一字一字拾って、それを版にして印刷をしていたのである。
原稿を眺めながら、膨大な活字のなかから手早く活字を拾っていく技術はまさに職人技であり、それを専門とする職人さんのことを植工と呼んだ。

活版印刷には、味わいがある。版の出っ張っている部分にインクを付け、紙にインキを転写する原始的な手法だが、印刷の際に紙に圧力がかかるので、どうしても凹凸がでてしまう。刷りムラもあるが、それがかえって仕上がりに個性を醸す。

昔、レコードを聴くとき、針を落とした瞬間から針とレコードの状態が露わになって、ざらっとした音やしゃらしゃらとした音までが音楽の一部になっていたように、活版印刷には、煩雑も完成も未熟も熟成も一緒の感触があった。できることなら名刺の印刷も活版でお願いしたいところだが、いまではきっと、デジタル工程の数倍の費用がかかることを覚悟しなければならない。

この本を手にとったとき、活版、とすぐにわかった。あえて選択されたわら半紙のような用紙に、かすかな凹凸が感じられる。それだけで宝物を手にしたみたいで、うれしい気持ちになった。

一度、建物を建てる場所から離れて、
あなたが好きだなと感じる場所を考えてみよう。
あなたが気持ちがよいと感じる場所を考えてみよう。

本のなかでは、このフレーズが何度も繰り返される。モデルハウスや住宅雑誌で見るような豪奢な空間は多くの人の憧れだが、そこが街の景観、家族の生きる場所、生や死を内包した暮らしの原点になっているかといえば疑問が残る。著者はそうした問題をやさしくも執拗に、問いかける。

機能を求め、装飾に目を奪われ、生活の単純という、もっとも大切なことを忘れた家や暮らしに、物語を紡ぐ「間」を見つけるのは至難の業だ。完成を求めず、時間とともに彷徨する「余白」を潜ませた家こそ、未来に継承し得る「記憶」を紡げる家になることもある。それができないのなら、温熱環境のみを近代科学で性能化し、機能や空間の大半を昔の町家や商家に学ぶ。あるいは、古き良きアメリカのシェーカーたちの家に倣うのもいい。

 

アメリカでは、1階、2階のことをthe first story、the second storyなどということがある。This building has three stories=は、「この建物には3つのstory(=物語=階・層)がある」ということである。外国語の世界でも、家に「物語」を重ねて考えるのは面白い。

 

もし、他の人も好きだな、気持ちがいいと感じるような場所が見つけられたなら、その場所にはなにか秩序があるはずだ。

その秩序を見つけたとき、好きな場所、気持ちのいい場所を発見した歓びは倍増するだろう。

 

継ぎ目や目地といった言葉も、建築だけではなく、人間関係の機微を示唆するかのように繰り返される。計算され尽くした継ぎ目があってこそ、建築の世界のみならず、人間の世界にも「おさまり」が生まれるのかもしれない。

 

 

※西田書店

 

※71ページの1行目に誤植があった。「語」が半回転している。おそらくは計算された誤植。完璧を求めず、余白や隙間に生まれるゆたかさを期待しているように思えてくる。