言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

居場所。

Aさんのお話を聴く。「My chair」という言葉に出合う。欧州の家でよく見かける一人掛けの椅子のことである。ソファやダイニングの椅子より高価なものが多く、家長が座る。「自信を取り戻すための居場所なんです」とAさん。いい言葉だ。

 

残念ながら「自信を取り戻すための居場所」も「My chair」も我が家にはない。仕事場は家族の空間とは寸断されてはいるが、気持ちがへこんだときは、仕事場にいるだけで自信がさらに削がれる気がする。そんなときには、押入れのなかで一人、昼寝でもしたくなる。我が家に限らず、居場所であるはずの家に、個々の居場所がない家は少なくないはずだ。

 

かつての日本家屋には、家長しか立ち入ることのできない場があった。多くは仏間であったり、床の間などであった。家族や訪問者が立ち入ることを許されても、床の間を背にして座るのは家長と決まっている。見分の上下を明確にして席順が決められ、子どもたちは序列の厳しさを家のなかで学んだ。上座・下座という言葉は、ここから生まれ、その場はまた、家長のための「自信を取り戻すための居場所」でもあったに違いない。

 

相変わらず、デザイン、インテリア優先の家が流行している。和でも洋でもない「和風」「洋風」の「風=ふう」であり、大半が根なし草のように見えてくる。大金をつぎ込み、昭和のラブホテルのようなインテリアとしながら、季節の花の1本すら飾られることのない家。機能や設備や動線にこだわるばかりで、曖昧な「間」を排除し、自ら居場所を失くしている家も増えている。「間(ま)」のない家は、「ま抜け」な面構えをしている。

 

自信が持てないときは焦るばかりで、ブレーキを踏みながらアクセルを踏み込んでいるような状態が続く。そうしたときには「My chair」の代わりに、意識して「My time」を創る。その「time」とは、思考を中断させる時間でもある。

 

朝、仕事前のひととき、瞑想をする。5分間、思考を中断させるだけでアクセルかブレーキのどちらかが、緩んでくる。身体が少し軽くなる。いちばん簡単なのは料理だ。余計なことを考えながら包丁は使えない。肉や野菜を刻むだけで、思考の絡まりが解れてくる。美味しい料理を食べたいので、味付けの際にも邪念は寄り付かない。

 

「世界」はサンスクリット語で(ローカダートゥ=loka-dhaatu)を源流とする言葉だそうだ。"loka "は、「空間」や「(林の中の)木の無い場所」「空き地」のようなものを意味し、"dhaatu "は「界」を意味する。仏教用語として用いられ「命あるものが生存し輪廻する空間で、そこにおいて一仏が教えを広める空間」をあらわす(参照 ウィキペディア)。

 

少しの意識の転換で、日常との「界」を創る。すると「世界」がわずかに拡がってくる。その「世界」はひょっとして、宇宙規模で測られるような居場所になるかもしれない。