言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

Tさんの思い出

この町に来て最初に仕事をいただいたのが「T」さんだった。
新聞社、放送局を廻っては「うちではフリーのライター、編集者など使ったことがない」とのきなみ断られ、落ち込んでいた矢先のことであった。

印刷会社から仕事をもらうことなど
それまで考えてもみなかった。1980年代の札幌でも
新聞社や放送局、出版社が、フリーランスに原稿を依頼することは
珍しくないことだった。
こうした仕事が印刷会社から廻ることなど
この土地特有の、よろしくない慣習、文化であると、いまも思っている。
文章もデザインも写真も本来は
印刷ありきという「工業製品」のパーツに成り下がってはならない。

「おまえ、子どもはいるのか」が第一声だった。
「おまえのような仕事で、独立して食っている人間は聞いたことがない」

その数日前、税務署でも同じことを忠告されたばかり。
「こういうお仕事は、きびしいと思います。扱ったことはありません」
その時申告したのは、年間の売上で30万円そこそこ。昔の話とはいえ、この忠告は間違ってはいなかった。

「娘が1歳半になります」
「そうか。この企画書を明日まで書いてきてくれるか」

あるスーパー向けの広報誌の企画書であった。
実は、セールスプロモーションも企画書を書くことなど初めてのこと。
しかし、仕様も分からぬままレポート用紙を購入し、
一晩で10枚ほどの企画書を書いた。もちろん、手書きである。
何を書いたのか覚えてはいない。

翌日それを届けにいくと「T」さんはわざわざ
応接室に私を通して、その場ですぐに目を通してくれた。
そして「おい、経理!」と大きな声で
経理部長を呼びつけ「この方に2万円お支払いしなさい」といってくれたのだった。


印刷会社の仕事など…と、そのときは生意気にも考えたが
反対に「T」さんの目は
瞬時に私の力量のなさを見抜いていたに違いない。
要は、お金をくれたのだ。
このときの2万円は、自分にとっては飛び上がるほどの大金だった。
この恩は一生忘れまいと、自分に誓った。

病室では、そんな思い出話で盛り上がった。
「俺もよそから来た人間。おまえも知らない土地で、よく頑張った」
出版の世界でも大先輩だが、お互いさまのことだ。

その後、本を編む小さな事務所を立ち上げた。
雑誌以外の出版物は、全て「T」さんの会社で印刷してきた。

恩返しはまだ終わってはいない。「T」さんを超えることが
何よりの恩返し。この人の出してきた
数百冊という実績に到達するのは、100年先のことになるだろう。
それでも、100冊目くらいのときには、
少しだけ「T」さんに
褒めてもらいたいと思っている。


※写真/取材ノート。どんなVIPの取材、対談・座談会、講演会の収録や取材でもテープを使わない。速記ができるわけでもない。キーワードを瞬時に絞ってメモするだけ。さすがに1週間くらいたつと、自分の字も読めなくなる。