言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

Varanasi (Benares)

デリーとカルカッタの中間に位置するヴァラナシ(ベナレス)は、
ヒンズー教徒が死ぬまでに一度は訪れたいと願う
ヒンズー教最大の聖地である。


ガンジス河で沐浴し、現世での罪を洗い流し、身を清める。
この地で死を迎えたいと願う人も多く
「死を待つ人の家」が、町中至る所に軒を連ねている。


幸運にも、ここで最後を迎えた人は
河岸でそのまま火葬され、遺灰は目の前の聖なるガンジスに流される。
戦場以外では、世界で唯一、生と死が混在した場所でもある。

この目で、ヴァラナシを見る。それが、長年の夢だった。
が、2度に及ぶインドの旅で、
ヴァラナシに辿り着くことはできなかった。何年も何年も前の話。

一度目は、30キロほど手前の小さな村で、赤痢に倒れた。
2週間、村の病院で生死の間を彷徨った。
ムンバイから乗り合いバスを乗り継いで、3週間目のこと。
過酷な旅があだとなった。2週間で8キロ、肉も骨も削ぎ落とされた。

数年後、二度目のインド。
入国して2か月目に入ろうとしていた。
タジ・マハールで有名なアグラという町に1か月間滞在し、シタールを学ぶ。
満を持してヴァラナシへ──というところで、猛烈な下痢。
この下痢は、結局、その後2週間続き、帰国するまで回復することはなかった。
体力ともに、やがて資金も底をついた。

やや体力が回復したある日。
アグラの町のはずれにあるヒンズー寺院を訪ねた。
僧侶に尋ねてみた。
「ヴァラナシには、今回も行けそうにない。これもカルマか」
僧侶はこう答えた。
「ヴァラナシが、あなたを選んでいる」


1──自分には、ヴァラナシに行く資格などない。
2──ヴァラナシに辿り着くときは、自分の人生が終わり、始まるとき。

いまでもこの2通りの解釈をしているが
どちらかといえば、後者のほうではないかと思っている。
インドを意識し始めたときからずっと、
ヴァラナシが自分の到達点であるかのようなデジャブを抱えてきたのだった。

人生が終わり、そして始まる。
ここでの「始まり」は、来世の意味である。
このデジャブが、現実になるのが怖いあまり、
以来、日本の現実社会で「引きこもり生活」を続けていることになる。