言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

手紙

数日前、
我が子を亡くしたばかりの母親に会った。
その翌日、
2年前に我が子を亡くしたという別の母親から
手紙を受け取った。

久々に見る手書きの手紙。
細いボールペンで、一文字一文字丁寧に書かれた文字が
便箋3枚にぎっしり埋まっている。

「この頃、仏壇に掌を合わせる
  主人の後ろ姿が、小さく見えます」

この文章を一気に書いたのか、時折、ペンを止めながら書いたのか。
そんなことを考えながら、何度も繰り返して読む。

文字をそっと手でなぞり、筆圧を確かめる。
その人自身に
ふれたような気になれるのは、自筆の手紙ならではだ。

 

「小さくなった主人の後ろ姿」が
文字と書き手の思いという2重のフィルタを通し、
柔らかなネジのように
心にギリギリと突き刺さってくる。


手紙を書くということは
書いている間、あなたのことを思っています──。
そんな「時間」を、相手に贈ることでもある。この時間だけが、相手を独り占めできる。

時間差こそあるものの
その贈り物を受け止めたとき、送り主との「つながり」ができる。
人は人に何かを「してほしい」のではない。
「つながり」がありさえすれば、十分に、報われるのではないか。


施設の母が骨折したとの連絡。認知症が進み、痛さも認知できない状況かもしれない。その母に、手紙を書こうかどうか、迷っている。