言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

ある姉妹 国境を隔てて

韓国の日系夫人保護施設を訪ねたことがあった。戦前あるいは戦中に韓国人と結ばれ朝鮮半島に渡ったものの、終戦後、自らの意志で帰国船に乗らなかった女性たちが、やがて孤独の身となり、保護され、身を寄せながら暮らしている。日本にいる親兄弟とは、ほとんどが絶縁状態にあった。


K市に妹がいるはず…といったA子さんは「死ぬまでに、もう一度会いたい。せめて、写真を届けてほしい」と、帰り際、私にすがりついた。


釜山からフェリーに乗り、大阪経由で帰国後、A子さんの妹さんが暮らすはずのK市の市役所に立ち寄った。各課をたらい回しにされた上、かつて住んでいたらしい住所を数か所を回り、ご近所の話をうかがい、夜になって居所を突き止めた。

 

妹さんは、隣町の老人ホームに入居していた。K市の市役所から、タクシーで15分足らずだった。


受付で事情を話すと、職員の女性は青ざめた顔で「わかりました」と言い、すぐ妹さんを呼びに行ってくれた。に

数分たって、2人の職員に車椅子を押され、目の前に現れた妹さんは、A子さんとうり二つだった。
職員の一人が傍らに来て「痴呆が始まっています」と耳打ちをした。


キャビネに焼いた十数枚の写真を手渡し
「A子さんは元気です。もう一度、お会いしたいと言っていました」
とだけ伝えた。

妹さんは、しばらく無言で写真を眺めていたが、目がきらっと光った次の瞬間、「あーうーあうー」と外にも響くような奇声をあげた。
写真に何度も頬ずりをし、また「あーうあうー」とかすれたような叫び声をあげた。

そんな声に背を向けて、玄関へと向かった。自分にできることは何一つない、そのことがただ、悲しかった。


振り向くと、2人の職員が車椅子の後ろに立って、涙を拭いながら、何度も頭を下げていた。