言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

月に一度か二度「醒めたくない夢」を見る。
そのまま夢の世界に、留まっていたいような夢。

2週間前は大仏の胡座(あぐら)のなかに自分がすっぽりと収まり、
あまりの心地よさに
夢から醒めてもまた、布団に入り直したほどだった。
大仏は、亡くなった父だった。


今朝方見た夢も、不思議な夢だった。
どこかの家におじゃまして、ご主人の話を静かに聞いている。
ご主人がデスクに地図を拡げ出し、こう話す。

 

「実はね。ここは地図にない町なのです」


窓から外を見ると、ふつうの庭があり
その向こうに道も見える。
何の変哲もない住宅街にある家なのだが
その話を聞いた瞬間から、
心地よさというか、温かさというか
安心のなかに置かれるのだった。

ご主人が「何か食べますか」と尋ねる。
メニューのようなものを開いて見せるが、
食べ物が一つもなく、木屑や石ころばかり。

 

不思議そうに顔を上げ、
ご主人を見ると「だって、ここは地図にない町なのですから」。


不思議だが、身体全体がまだ、温かい。
目覚めてからも、
もう一度その世界に戻ろうと必死になって
目を閉じたが、だめだった。


夢なのだから、といってしまえばそれまでの話。
だが、この手の夢は思いもかけず、
もう一人の自分を目の前に映し出し
その自分と感覚までも共有できることが少なくない。

夢のなかの自分は
生きている自分の化身であることもあれば、
全く別ものの自分のときもある。


別ものの自分ということは、
いったん死んだ自分の生まれ変わり…ということもできる。


少なくとも夢を見ている自分と
夢のなかに生きる自分との、2つの魂が存在する、のかもしれない。


温度を感じたり、怒ってみたり、泣いてみたり。
夢もまた、映画や文学と同様に追体験の装置であるとしたら、
人間の心身というものはやはり、
とてつもなく宇宙に近く、深遠なものに思えてくる。