言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

駅、ホーム

ウーンウーン…というサイレンの音が窓の外に鳴り響くと
それまで教室で居眠りをしていた奴らも瞬時に目を覚まし
小さく細かなざわめきが、
ザワワと音とたてて、教室の中を駆けめぐる。

坑内事故を知らせるサイレンだ。


この時間、自分の親が坑内にいる時間かどうかは、
たいていの場合、子どもたち自身が知っている。これは習性としかいえない。


いったん事故が発生すると、
地下千メートルもの場所で働く自分の父親が
おおよそどんな状況に置かれるかも、である。

北海道のこの町で、記録に残る炭鉱事故は
1956年・死亡60人、1961年同20人。いずれも坑内でのガス爆発だった。
数人規模の死者を出した小さな事故は
数知れないほどあったに違いない。

サイレンのあとの教室は、残酷なくじ引きの場と化す。
校長先生か教頭先生が
授業中の教室の戸を開け、名前を呼び出された方が「スカ(はずれ)」。
呼び出しのなかった方が「アタリ」。

クスノキ君、ちょっと」

授業の途中、コンコンと小さなノックの音のあとに
教室の戸がガラリと開けられ、
その名が呼ばれた。
ほんの数十分前、サイレンが鳴ったばかりだった。

教室の子どもたちは、
戸惑いがちに安堵の表情を浮かべ
次の瞬間、クスノキ君に正直な同情の目を向けた。

死亡事故の場合、あとの行程はほぼ決まっている。
数日以内に弔いの儀式を済ませ、
働き手を失った母子は1か月以内に
実家か親戚のある町、
あるいは女手でも働き口のある都会へと居を移す。

あの時代の学校はまだ、子どもとその家族にも実直だった。
一人の転校生が出るたび
クラスの子どもたちは全員揃って
駅まで見送りに行った。校長先生も教頭先生も用務員さんも来た。

ホーム。

先生は家族とその子の手をしっかりと握り、
汽車が出たあとは、姿が見えなくなるまで、
泣きながら手を振った。
子どもたちは、友人が去っていくので泣き、
先生が泣いているのを見て、またもらい泣きした。

閉山が相次ぐと
駅は毎週のように、見送り行事の舞台となった。
一度にまとまって数家族が旅立って行くような場合は、
学校の鼓笛隊が出向いて演奏もした。
小太鼓担当だった私は、
友人以外の見送りでも何度出番があったか数え切れない。

握手をするなど、恥ずかしい年頃ではあった。
でも、別れのたびに、
私たちは小さな手でしっかりと互いの手を握り合い、
おそらくは生涯果たし得ない再会を約束し
手がちぎれるほど、去っていく列車に向かって手を振った。


クスノキ君も、クスノキ君の2つ違いの幼い妹も、そしてお母さんも
また会おうね、みなさんお元気でね──と
涙でグシャグシャの顔を無理矢理微笑ませ、デッキの向こうで手を振った。


駅を去っていく家族は
おおよそ、みんなそうだった。
1人、2人、10人、100人…という単位で
友だちは、こうして家族ごと町から去っていったのだ。

いまはもう取り壊してしまった実家のある町に帰るたび、駅に立ち寄る。
このホームで見送った
数え切れないほどの家族の面影を一つひとつ思い出し
余韻に浸る時間が宝ものになっている。

 

「この物語は、私のためだけにある」と思えたときに、人は救われるという(歎異称)。だから、自分にきつく言い聞かせる。「この記憶は、私のためだけにある」。