言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

ライスカレー

テルちゃんは、10歳年上の従兄。
生後まだ数か月の赤ちゃんだったときのことだ。

ある日、木材を積んだトラックに乗った。運転は近所のおじさんで、テルちゃんを抱いた母親が助手席に座った。

 

何かがクルマの前を通り過ぎた。

 

次の瞬間、ハンドルを切り損ねたトラックはひっくり返って、田んぼに突っ込んだ。
テルちゃんは母親と一緒に車外に放り出され、落ちてきた何本もの木材の下敷きになった。

九死に一生を得たが、後遺症が残った。
丸い頭のかたちが、3分の1ほど平らになるほどの大けがだった。大人になっても頻繁にひどい頭痛に襲われ、時々全身が痙攣した。

「なぜ、自分だけ、こんな目に遭わなくちゃだめなんだ」

ことあるごとに、周囲の大人たちにそう叫んでは泣いていた。
大人たちは何も言えず、黙っているばかりだった。
そして次第に「愚痴」ばかりいうテルちゃんから遠ざかっていった。

そんな過去のことなど知らない私は、テルちゃんのことが大好きだった。
家に遊びに行くと、いつも近くのライスカレー屋さんに連れて行ってくれるのだ。

ライスカレーが運ばれてくるまで、あらかじめ運ばれてきたスプーン片手にハアハアいいいながらそれを待った。少しの時間も我慢できないほどだった。
テルちゃんはいつもこんなことをいって、落ち着かせてくれた。

「もうすぐだ。スプーンを水に浸しておけ。冷たくなるよね。そうやっておくと、熱いカレーもご飯も、すぐに食べれる。それにね。水につけたスプーンで福神漬け食べると、飴みたいにに甘くなる。もうちょっと待ってね」

ライスカレーが運ばれてくると、濡れたままのスプーンで熱々のそれをすぐに頬張った。確かに、やけどをすることもなく、フウフウしなくても、すぐに最初の一口にありつける。

テルちゃんは、周囲の大人にこそ、小難しいヤツと嫌われても、私に好かれていることを知っていた。だからこそ、なけなしの小遣いをはたいて、しょっちゅうライスカレー屋に連れて行ってくれたのだ。

 


30歳になっても、病気は治まらなかった。
一緒にライスカレー屋に行くことはなくなったが、年に何度か横浜から実家に帰ると、テルちゃんは車で家に遊びに来てくれた。一緒にご飯を食べたあとには、薬を何袋も飲んだ。

「水なくても、飲めるぞ」と胸を張りながら、病院からの投薬を、何袋も水なしで飲んで見せた。
よくケホケホにならないねえ、というと「長年の慣れさ」と笑った。


いくつか職にもついたが、長続きはしなかった。急に襲ってくる頭痛や痙攣が若い身体をいっそう蝕んだ。

それから何年かたって、テルちゃんは死んだ。

その日のうちにテルちゃんの家に駆け付けた私に向かって、テルちゃんの父さんは「ほっとしたよ」という顔をして見せた。
何度もライスカレーをごちそうになったことを話すと、叔父は少し黙ったまま、ウッと詰まって、横を向いた。

ライスカレーとカレーライス。
どこがどう違うのかはわからない。だけど、テルちゃんが連れて行ってくれたあの店の品書きは確かに、「ライスカレー」だった。