言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

薪割りの日。

いまごろの季節になると、私の生まれた北海道では、どこの家でもストーブに火が入り始める。もう、何十年も前のことだ。近所の家の庭では、薪をさらに細く刻んだたきつけ割りが始まり、それらを物置や家の壁に沿って屋根近くにまで積み上げていく仕事で忙しくなる。

 

薪割りやたきつけ割りは、大人の男の仕事と決まっているわけではない。鉄道官舎や近くの長屋の母さんたち、子どもたちも手伝って、1週間か10日のうちに作業を終える。

そのあと家々の前にはトラックで石炭が運ばれ、これまた家族総出で炭小屋に石炭を入れ、冬への支度を調えるのである。

 

昭和30年から40年代、石炭は黒いダイヤといわれ、その断面はまるで高価な飴のように艶めいて光り、子どもの私は何度もそれをペロリと舐めては、母からゲンコツを喰らった。スケゾウ君やシュン君、マナブ君の父さんたちが地下1000メートル以上のところから、命がけで掘ってきた石炭は、町の人間にとっては大事なものであり、誇りであり、宝でもあった。

 

薪割りは、慣れるとそう難しい仕事ではない。小学生でも、あたりさえよければ、さほほど力を入れずとも、パカンと気持ちのいい音をたてて割れてくれる。しかし、さすがに斧は子どもには重く、すぐに疲れてしまうので、持久力で大人との勝負にはならなかった。

 

たきつけにするには、いったん父が斧で薪にしたものを包丁を少し大きくしたような鉈を使って割っていく。父が私用にと作ってくれた低めの丸太の切り株に腰かけ、パカン、パカンと鉈を振るう作業は、どこか大人になったような気分になれるので、そのことだけで、たきつけ割りは嫌いになれなかった。

 

たきつけ割りは、当時飼っていた犬のタロのそばと決めていた。タロは、鉄道官舎から小さな家に引っ越すとき、ハマダのおじさんが番犬にしろとくれたのだけど、誰にでも愛想がよすぎて、番犬としては失格だった。

 

大きな耳が半分前に折れ、真っ黒な両眼の奥に、いつもキラキラ光を湛えていた。からだは絵の具の茶色そのままの鮮やかな茶で、腹は白。朝夕、残り物のご飯に味噌汁をぶっかけたのが餌だった。人なつっこい犬で、私たちがたきつけ割りをしている最中もずっと、眼を輝かせ、ハアハアハアと息を弾ませながら、父と私がそばにいるのを歓んでいた。そんなタロが大好きだった。

 

そろそろ仕事に飽きてくる夕暮れどき、夕陽で赤く染まった空に、真っ白な小さな虫の大群が現れる。ユキムシである。遠くの山に雪が降るころ、どこからか里まで飛んできてバスケットボールほどの球体の大群をつくり、ちょうど大人の背丈ほどの高さでふわんと舞うのである。秋が終わり、冬将軍がすぐそこまで来ているという知らせでもあった(大人になってから、ドリカムが「おやすみのうた」でユキムシのことを歌っているのに気づいて、とてもうれしかった)。

 

数分前まで赤く染まっていた空が紫に変わり、ユキムシたちの群も次第に霞んで見えにくくなってくる。秋の夜はつるべ落としである。舞台袖に用意されていた深い闇があっという間に家を覆って、どの家の窓からも、裸電球の薄ぼけた朱色が漏れ始め、煙突から立ち上る何本もの白い煙が、闇のなかに消える。そして、その先にちらほら星が見え始める。

 

たきつけ割りにはとっくに飽きて、ぼんやりとユキムシを眺めていたあとのときの自分には、明日のことも、10年先のことも、何の不安もなかった。不器用だって、安っぽい自転車を漕ぎ続けるような生き方に、少しの疑問も抱いてはいなかった。

 

「ご飯だよお」

母の声が家のなかから聞こえてきて、私は父がよくするように、ヨイショといって腰を上げ、父の声に似せて「わかったあ」とわざと低い声を返した。その夜、父や母や妹と、どんな時間を過ごしたのかは、いくら考えても思い出せないのだけれど、秋が深くなるとよみがえる、淡い記憶の一つ。