言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

ホームの向こう。

駅舎はすっかり以前の面影をなくしているが、ホームも跨線橋もほぼ50年前のまま。跨線橋の奥に見える小さな建物が父の「職場」だった。昔は、ホームがこの建物まで続いていたが、いつの間にか、途中でちょん切られたようだ。

 

鉄道員だった父の詳しい仕事はわからないが、汽車と汽車がぶつからないように手描きのダイヤを作成したり、監視するような仕事だったと思う。勤務は泊まりと日勤とがあって、泊まりの翌日は、私たちが学校へ行ったあとに帰宅し、日勤は夕刻6時頃に仕事を終えて家に帰る。帰宅といっても、泊まりあけの朝は駅前の食堂で一杯飲み、日勤のときも夕飯時に帰ることなどほとんどなく、これまた、駅前の食堂で一杯も二杯も三杯も飲んできて、母を困らせた。

 

泊まりの日、弁当を届けるのは私の役目だった。駅の隣にあった鉄道官舎から引っ越ししたあとは、夏は自転車、冬は徒歩で駅に向かう。歩くと20分以上。真冬は零下20℃にもなるこの街で、夕刻、子どもに弁当を届けさせる母親など鬼ババアに違いないと、長らく思ってきた。

 

跨線橋の階段も、そのたたずまいは昔のままである。ハンカチに包まれた弁当箱を片手に、この階段を一気に駆け上がり、反対側のホームに降りて、父の仕事場に向かう。当時の鉄道員はのんびりしたもので、夕食時になると当直の職員数人で味噌汁やおかずを作っておき、家族から届く弁当を待って一緒に食べるのだった。

 

仕事場に入ると「おっ、弁当持って来たのかい」と、おじさんたちが声をかけてくれる。みんな、以前同じ官舎に住んでいた鉄道員たちだ。父は、石炭ストーブの脇に座って味噌汁の鍋をかき回していたこともあったし、緊張した表情で、何度聞いてもわからない鉄道用語で、受話器に向かって大声で怒鳴っていることもあった。真っ白なワイシャツにネクタイ、紺色の制服がカッコよかったが、家ではいつもただの酔っぱらいだった。何度かに一度、弁当を届けると「ん」とだけいって、30円とか50円を私の手に握らせた。「チョコレートでも買って食え」と何か言葉を発するときは、機嫌のいいときだった。

 

 

このホームで、何人の友だちを見送っただろう。炭鉱の落盤事故や閉山のたびに、友だちは、お父さんやお母さん、あるいはお兄ちゃんや妹たちと一緒に汽車に乗り込み、街に残る者が、ホームで見送った。担任の先生や教頭先生も駅まで来て、みんなで汽車が見えなくなるまで手を振っていた。大好きだったA子先生がホームの柱の陰で泣きじゃくる姿を何度見たかわからない。

 

亡くなった人も、記憶にあるだけで3人。保線のBおじさんは、汽車と汽車の連結時に挟まれて圧死した。冬、凍結したホームから滑って汽車とホームの間に挟まれ、そのまま身体を粉々にされて亡くなったのはCさん。線路を渡るとき、轢かれて死んだ人もいた。なぜ、こんなに覚えているかというと、遺体の処理で朝方までかかりっきりになり、焦燥しきった顔で帰宅した父の顔を覚えているのである。その数が3つなのだった。

 

線路を渡るときに轢かれたのも知っているおばあさんで、このとき母は幼い私の手を引いて、事故現場に連れて行った。毎日、線路を渡って、その向こう側まで遊びに行く私に、母は「おばさんみたいに、死んじまうんだぞ」といって、遺体のあった場所を指差した。その後母は、近所のおばさんたちから「あんたのかあさん、鬼だなあ」と陰口を叩かれた。やっぱり、鬼ババアなのだった。

 

母が亡くなったあとも、街にくるたびこの駅を経由する。日に何本かしか汽車は走っていないが、それに合わせて、何時間でも待つのがうれしくもある。ホームに立っているだけで、昔の記憶が足元からじわじわと立ち上ってくる。記憶のなかにある風景は、いつもなぜか白黒である。色のない世界だからこそ、自分だけの記憶の色を、載せる自由を味わえる。

 

 

※北海道ではいまも「電化」区間新千歳空港―札幌-小樽―旭川などの一部区間に限られる。札幌発着の列車でも、電化区間より先の稚内や網走まで運転する特急は気動車。「電車」ではなく「汽車」という言葉がいまも当たり前に使われるのには、そうした背景がある。