言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

フジおじちゃんとフジおじちゃんのおばさん。

フジおじちゃん。名前をフジオというので、そう呼んでいた。父の2つの上の兄である。若いときに結核に罹って、何度も手術を繰り返し、最後の手術では肋骨が6本も切られてしまった。それでも退院して、少し体調がよくなると酒もタバコもやった。

奥さんは、フジおじちゃんのおばさんだから、フジおじちゃんのおばさんと、ずっとそう呼んでいた。おばさんは一生懸命に働いて、フジおじちゃんの病院代を稼ぎ続けた。退職間際には管理職にもなった。

フジおじちゃんが、うちに来て父と酒を飲んだり、食事をして帰っていくたび、母はフジおじちゃんが口をつけた食器を全て金属製のボールに入れ、石炭ストーブの上に置いて、グツグツと煮た。結核菌の煮沸消毒のつもりだったのだろう。「子どもたちにうつすわけにはいかない」といって熱湯のなかの食器を箸でかき混ぜる様子を、父は寂しそうに見つめるだけだった。

私が大学を卒業する前に、フジおじちゃんは、病院で亡くなった。30年も入退院を繰り返していたことになる。亡くなる数か月前にお見舞いに行ったときには「ダイちゃん、オレ、死ぬたくない」といって、ベッドのうえでよく泣いた。そしてそのあとに「大丈夫だよな。何度も死にかけてきたけど、死ななかったからな」といって、へへっと笑った。が、そのときはすでに、ぱっちり大きかった二重の目が一本の線を引いたように細くなり、からだも紙のように薄くなっていた。

神経質な父と違って、病人のくせに朗らかで冗談の好きな人だった。話の最後には、ちょっとずるい顔で「へへっ」と笑った。葬儀のときに「やさしいおじさんだったねえ」とフジおじちゃんのおばさんにいったら「そうでもないんだよ」とおばさんがいった。

隣の家に何かのもめ事でヤクザが押し掛けてきてね。ガヤガヤって聞こえてきたら、ウチのがね、台所から包丁一本持っていってね。私も心配だからあとを追いかけていったんだ。でね、その家のなかまで入って、そこにいるヤクザに向かって、包丁をグサッと畳に刺してさ、おまえたち、この俺に免じて出てってくれーねーかって啖呵を切るんだよ。いつもヘラヘラしてるくせにさ。粋なところがあってね。そんなところに惚れたってわけさ。

 

フジおじちゃんのおばさんは、ゲラゲラ笑って、そんな話をしてくれた。私がこの街に越して来て数年たった頃、フジおじちゃんのおばさんが、母と一緒に遊びに来たことがあった。「ウチのが死んじまったからさ、たんまり金貯まったよ」といて笑った。近くの温泉に連れて行ったが、お金はみんなフジおじちゃんのおばさんが出してくれた。

フジおじちゃんのおばさんは、その後、膝が悪くなって、何度も手術をした。好きなタバコはやめず、75歳まで一人で車の運転をして、病院通いをしていた。子どもはいない。「死んだら頼むよ。誰も頼りになんないからさあ」が口癖になっていた。だけども、おととし、フジおじちゃんのおばさんは、誰の世話にもならず、一人旅立っていった。

 


自らをまっとうな人間だとも思わずに、まっとうに生きた人たちがいた。あの人たちのそばにいる時間がほんとうに少なすぎたと、後悔しても、もう遅い。自分の足音に追われるように、速足でばかり生きてきたのだ。