言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

安住せよ。

ずっと以前の話だが、住宅関係の方々との会合で、食洗機の話題になったことがあった。その場にいたほぼ全員が「採用しない理由がわからない」という。恒常的に水不足の土地でもなく、地方に行くと、世帯当たりの人数が2.0人を切るというのに、果たして必要なのかなと考え込んでしまったのは、自分だけだったようだ。

 

皿洗いをする時間は、その日の気持ちを洗い流せるみたいで嫌いじゃない。そのことは話せなかった。昔、京都のYHで2カ月ほど、連日、150人分の調理と皿洗い(の手伝い)をしたことがあった。あんなに大人数の汚れを落としてきれいになるのが、快感だった。みなさんの歓ぶ顔が、声が、言葉がうれしかった。


家事は「悪事」なんだろうか。効率を向上させたのち、空いた時間で、何をしたいと考えるのだろう。

 

家づくりの過程で、短い動線に機能を求める人も少なくない。が、一見、無駄に思える古い日本家屋の縁側や長い廊下、玄関までのアプローチは、わずかな移動の時間で、気持ちを整えるための貴重な動線であり「間」でもあった。曖昧な空間、時間を、自らの意志で操ることのできない生活は、けっしてゆたかとはいえない。いつも、このあたりでわからなくなるのだ。

言語学者外山滋比古さんのメモが残っている。コンピュータと人間の違い。「コンピュータは生活ができない。忘れることもできない。人間は忘れる力があるから、また、学ぼうとする」。リセットの永続的な繰り返しこそが、生活の本質といえるのかもしれない。

 

 

 

この人の本も大事にしてきた。絵本作家の甲斐信枝さん。雑草を主として、草花を描き続けて60年以上。いつか雑誌で読んだ記事で、雑草に教わったことについて「安住」という言葉を使われていた。魂で対象に向き合った人だけが享受できる言葉の重さ。高潔な花ではなく、私たちのすぐ傍らで命を紡ぐ雑草に学ぼうとする謙虚さに頭が下がる思いがした。「私、人生観変わったの。観察しているうちに。草が教えてくれたのは『安住せよ』。長い長い自分たちが生きてきた歴史の中から、自分たちは安心しているんだって。細かなことでガタガタ思うなって。安住せよ。ちゃんと時間が解決するって。それはもう大変な財産でしたよ」。