言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

根室本線、もしくは函館本線。

北海道の実家に行くたび、帰路は無理をしてでも、鉄道を使ってきた。家から歩いて3分のところに札幌行きの特急バスの停留所もあったけれど、徒歩やタクシーで駅まで行き、1日に数本しかないディーゼル車に乗って帰路につくのである。

 

父の職場は駅。その駅の隣にあった粗末な鉄道官舎で生まれた。当時の駅舎は、すっかり姿を変えたが、跨線橋やホームは60年以上前のままだ。駅の裏手は雑草だらけになってしまったものの、往時の炭鉱の面影を残すズリ山が残っている。

 

父は徒歩で1分もかからない職場からでさえ真っすぐに帰宅したことはなかった。親不孝通りと呼ばれる飲み屋街を大きく迂回(うかい)して帰っては、すぐに夫婦のいさかいが始まる。そんな家は官舎に一軒二軒の話ではなく、どこかで夫婦けんかが始まるとすぐに怒号は響き渡って、それを聞いたおばさんたちが家を訪ねてきて「今日はうちでご飯食べようね」と、子どもの手を引いて自宅に連れていったりしてくれた。

 

鉄道員は、泊まりも日勤もある変則勤務である。そんな彼らや朝に仕事を終える炭鉱=ヤマの男たちをあてにして、早朝から店を開ける飲み屋はたくさんあった。まだ陽の高い時間なのに泥酔した男たちが、酔って道端に倒れている光景など少しも珍しくはなかった。

 

私といえば、両親のけんかのたびに、いろんな家で食事をご馳走(ちそう)になるのが楽しみになり、たらふく食べて、くつろいでいるところに興奮さめやらぬ母が迎えに来ては、玄関に入った途端、よその家でご飯を食べるとは何事かと、ゲンコで頭を二三発たたかれたりした。その頃父はすでに、すうすうと寝息をたてていた。

 

 

根室本線はいまも非電化路線である。支線部を含めない鉄道路線としては、北海道最長路線でもある同線を電化するほど当時の国鉄もJRも裕福ではなく、沿線に点在した炭鉱が次々と閉山した昭和40年代には早くも、電化は絶望的といわれていた。

 

 

「電車に乗せてやる」といって、父が札幌に連れて行ってくれたことがあった。官舎を出て、狭い新居に引っ越したあとだったかもしれない。車体を見れば型をいえるほど好きだった蒸気機関車ディーゼル車との違いはわかっていたが、子どもの私には、電車とディーゼル車との違いはわからなかった。間もなく、パンタグラフの有無で判断することはわかったものの、それがいったい何なのだ、といった程度の興味しかなかった。

 

その日の父は、酒飲みの父ではなく、鉄道員としての凛々(りり)しい顔をして、甘いお菓子を目の前にした子どもみたいに目がキラキラとしていた。隣の駅で電車を待つときにも、つないでいた私の手を離し、ホームを行ったり来たり、落ち着かない様子で電車を待った。私はといえば、電車に乗り込んでからも何がどういいのか、理解できないのだった。

 

父が言う。

「どうだ」

車内の感じもディーゼル車とほぼ同じである。

「これが電車だ」

私は黙るしかなかった。父はもう一度、

「どうだ」

と言った。

沈黙したままの私の表情をしばし、じっと見つめていた父は、しびれを切らし、

「これが、電車なんだ」

と隣の席に聞こえるくらいの大きな声を出して私をにらみ付け、それきり黙り込んでしまった。

 

 

函館本線の一部区間、滝川―小樽の電化が実現したのは1968年。この年は、北海道の鉄道員にとって特別な年であったことを知ったのは、あとになってからのことである。札幌に一極集中をしている北海道では、幹線でも電化はコストに見合わず、長距離特急もディーゼルで対応しなくてはならない。にもかかわらず、全国のどこより気候は過酷で、さらなる高速化が求められる鉄道員にとって、短い区間とはいえ、電化は一つの夢の実現でもあった。

 

 

札幌を往復する3時間ほどの間、父は口を閉ざしたまま、窓からの景色を眺めていた。タバコの煙と一緒に何度かため息をついたが、天井の扇風機がブーンと回って、紫煙を散らしてくれた。

 

窓の外には、たくさんの廃屋が見えていた。「北の国から」の脚本家・倉本聰さんはいつか「北海道には3種類の廃屋がある」と話していた。海岸に残された番屋、閉山後の炭鉱住宅、耕作をあきらめ、土地や家屋が捨てられた結果の農廃家。あの時代、汗まみれで日本の経済を支えた人たちの作業場や家であった。やがて、日本は化石燃料を軸とした産業構造に転換し、これらの一次産業に従事した人たちは家族とともに、国から見捨てられていった。鉄道の電化はそうした中で、光にも似たエポックだったに違いなかった。

 

 

夕刻、私たちは駅に着いた。

「ラーメン、食ってくか」

と父が言った。私は、うんと言って、黙って父についていった。映画を見たあとに必ず立ち寄る正直屋という名の食堂であった。私はラーメンを頼み、父はビールを1本頼んだ。あっという間にラーメンを食べ終わった。

ライスカレー、食うか」

父が言った。

ビールはまだ瓶の半分くらい残っていた。お猪口くらいの小皿に盛られたつまみのピーナッツも、あと5粒あった。私は、うん、と言った。そして、やっぱり、電車よりディーゼル車のほうがずっと好きだと思った。

 

往時の駅舎はすでにないが、ホームと跨線橋は私が生まれたときから大きく変わっていない。父が勤務のときは跨線橋を渡ってホームの向こう側にある指令室まで弁当を届けた。上りホームの後方には当時のズリ山が輪郭を残している。閉山のたびに、友人とその家族がこのホームから内地のどこかの街へと去っていった。旅立ちではない。去らざるを得なかったのだった。自分が死んだら、この駅の近くに骨のかけらを埋めてほしいと、近頃、そんなことを考えるようになった(2023.11 撮影)。