言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

サンタクロースの部屋。

 
あたたかな、と聞いて、思い出すのは二つの場面。一つは、茶の間の真ん中に置かれた石炭ストーブ。
厳寒期にはマイナス10℃にもなる私の故郷では、11月のはじめから石炭ストーブの火を昼夜絶やすことはなかった。
 
昼間はストーブの口を大きく開けて空気がたくさん入るようにし、細かく砕いた石炭をくべて、強い勢いで燃やす。
夜は大きな塊の石炭で火持ちをよくし、それが朝にまでぽやぽやとゆっくり燃えるよう、ストーブの口を萎めて燃やすのである。
その石炭をすくってくべるシャベルのようなものを「十能」という。毎年、この季節に読む「クリスマス・カロル」(ディケンズ)のなかにも出てくるが、こうした言葉を丁寧に紡ぎつつ訳した、村岡花子さんの日本語のきれいさには、再読するたび、うなってしまう。
 

夜、家族が寝静まったあと、闇のなかで石炭が燃える音が静かに響き、ストーブの口や蓋の隙間から炎がゆらゆらと天井に映し出される光景は、冬のわが家の原風景だった。

 

もう一つは、父の体温。寒い冬の夜、父は子どもの私に「こっちに来い」といって薄い布団に招き入れ、自分の足で両足を包み込み、あたためてくれた。このときの足のすね毛の感触がいまもはっきりと自分のなかに残っている。夜勤のときは母が代わって同じことをしてくれたが、すね毛の分だけ父の足のほうがあたたかく思えた気がする。

 

心が癒されるような、思い出の時間、あるいは場所。それらは案外、特定されるようなものではなく、家族や私自身を取り巻く、何か全体的なものの中でうっすらと育まれていくもののようである。その記憶が心の奥深いところでゆっくりと根づき、人を支えていくのだろう。

 

翻訳家、児童文学研究者で知られる松岡亨子さんは「サンタクロースの部屋」の冒頭で、こんなふうに書いている。

子どもたちは、遅かれ早かれ、サンタクロースが本当はだれかを知る。知ってしまえば、そのこと事態は他愛のないこととして片付けられてしまうだろう。しかし、幼い日に、心からサンタクロースの存在を信じることは、その人の中に、信じるという能力を養う。わたしたちは、サンタクロースその人の重要さのためだけでなく、サンタクロースが、子どもの心に働き掛けて生み出すこの能力のゆえに、サンタクロースをもっと大事にしなければいけない。

 

何十年もの時間を経てもなお、ストーブの種火みたいに、記憶の中でチロチロと静かに炎を揺らす記憶がある。

記憶という名の部屋が、大人たちに根こそぎ否定されなかった幸いが、残してくれたものかもしれない。この部屋こそが、自分にとっての居場所と思っている。

 

 

 

 ※サンタクロースの部屋―子どもと本をめぐって松岡 享子 () こぐま社  松岡亨子さんはこうも述べています。「心の中に、ひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中に、サンタクロースを収容する空間を作り上げている。サンタクロースその人は、いつかその子の心の外へ出て行ってしまうだろう。だが、サンタクロースが占めていた心の空間は、その子の中に残る。この空間がある限り、人は成長に従って、サンタクロースに代わる新しい住人を、ここに迎え入れることができる。この空間、この収容能力、つまり目に見えないものを信じるという心の働きが、人間の精神生活のあらゆる面で、どんなに重要かはいうまでもない」。

 

 

※「かんじんなことは 目に見えないんだよ」。サン=テグジュペリは「星の王子さま」で、こんな言葉を使っています。心を込めて世話をしたバラとけんかをし、自分の星を飛び出してしまった王子はその後、居場所を求め、いくつもの星を旅し、たどり着いた地球で、自分が特別だと思っていたバラがつまらないものだったと考えます。しかし、自分の星の一本のバラを大切に想い、共に過ごした時間を振り返るとき、王子と過ごした一本のバラはかけがえのない存在だったことに気付くのでした。