〇日
9:40から16:30まで、3つの老健施設を回る。
歌の時間、工作の時間、食事の時間…。
どの施設でも、どの場面でも、ほとんど全ての老人に表情がない。
遠目に眺めると(失礼ながら)
車椅子に乗ったクラゲが広いフロアに、
母が入居しているGHでも同じだ。
どの施設でも利用者さんの「自立」を目標に掲げながら
現実のサービスは「してあげる」ことに終始してしまう。
健常の側にいる人間が、食事の用意をしてあげる、
歌を一緒に歌ってあげる、工作を教えてあげる、話を聞いてあげる、
散歩に連れて行ってあげる──。
わずかな時間の立ち話。職員がつぶやく。
「勝手に動く利用者さんが増えると、
いまの職員の数ではすぐに制御不能になってしまう」
〇日
新築の二世帯住宅にうかがう。
同居して、ひと月もたたないうちに、おばあさんが「うつ」になった。
誰とも口をきこうとしない。
家からも一歩も出ない。
「おばあちゃん、お茶、いれてあげましょうか」
「おばあちゃん、一緒に、散歩、行ってみましょうよ」
おばあちゃんの表情は、どんどんかたくなるばかり。
長男もお嫁さんもほとほと困り果てた。
お盆。
都会に住む次男がお孫さんを連れて遊びに来た。
3歳になったばかりの女の子だが
「散歩に連れてって」とせがんでも、おばあちゃんは動こうとしない。
「ねえねえ、連れて行って!」
そんなおばあちゃんの手を強く引いた瞬間、
おばあちゃんはよいしょと重い腰を上げ、
お孫さんを連れて公園に行った──とは、同居するご長男の話。
〇日
──どうして車椅子なんですか。
「20歳のときのバイクの事故で」
──どこが不自由なんですか。
「首から下ほとんど全部。肘もあまり伸びない」
──指は。
「感覚がない。グーのまま」
──腕は。
「少し伸ばせます」
──どんなふうに。
「ほら、こんなふうに」
──足は。
「感覚がない。ゼロ」
──さわっていいですか。
「全然、わかんない」
──ボールを受けるときは。
「少しだけ感覚のある腕を伸ばして、グーの両手で」
──汗をかいてませんね。
「神経、やられているんで」
車椅子のバスケットボールチーム。
リーダーの話をうかがう。
平均年齢30歳ちょっとのアマチュアチームだ。
スポーツカーを操るように、みなさん、
車椅子を駆使して、広い体育館を疾走する。
羨ましいほどに、カッコいい。
──テクニックが大事なんですね。
「いや、スピードのほうが大事です」
──これからは。
「楽しくやりたいね。ずっと」
〇日
書くのに行き詰まったときに開くメモ帳がある。
この仕事を始めた当初から
本や雑誌に載った(自分には書けそうもない)表現や
先輩記者たちの文章の一部を書き留めている。
20冊以上、手が届く棚に置いてある。
存在感のある無口な目。
闇の中に白く光る豹のような眸。
身の丈ほどもあるパイプの先でプッと膨らみ
生命を宿す溶けたガラス。
革が化けると書いてクツと読む。
雪を冠った煙突から真っ直ぐに立ち上る煙。
煙には人の気配と生活の実感が塗り込まれている。
スイカは夏の味覚の王者。
太陽の熱をすべて吸い込んだかのような
真っ赤な果肉にかぶりつく醍醐味。
焼き物世界には凛然とした感がある。
──最初の1、2行で食いつかせ、奥へ奥へと進めさせる。
何度も教わったのに、できない。
事件ネタを多く書いてきた人たちが、
こんな味のある文章をさらりと書いていた。
行き詰まったとき、何度も、何冊もメモ帳を開く。
初心に還るどころか、いつもスタート地点に戻るばかり。