言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

湯たんぽとストーブと父の布団

 

昨夜の遅くから降り続いた雪は今朝になっても降り止まず、
昼過ぎまでに20センチ以上も積もって、地面を再び白色で覆い隠した。
昨日の昼には、家の前の道路もすっかり露出して灰色だったのに、
やはり厳寒の2月。いまが、冬の頂上。


北海道では、こんな程度の雪や寒さじゃすまないはず。
雪かきはどうしているんだろうと、
こんなときにだけ、友人や妹たちのことが心配になる。



この季節。
子どもの頃に過ごした粗末な家では、
朝目を覚ますと、布団の襟が白く凍っていた。
就寝中に吐く息が冷やされ、ちょうど口元のあたりがパリパリになるのだ。


前夜、寝る前に、多めの石炭をストーブにくべてはおくものの、
早朝にはそれもほとんど消えてしまい、
家族が目を覚ます前に起きた母が、新たに新聞紙にタキツケをのせ、
その上に石炭をかぶせて、勢いのよい火を創る。


冷え切った室内にはすぐに、
夏のお日さまなんかでも叶わぬような強い暖気が放射され
ストーブの上にのせたタライの湯がぐつぐつと沸いて
私たちはその湯を洗面器にあけて、寝ぼけた顔を洗うのだった。



父や母は、前夜に使った湯たんぽのお湯を使って洗面した。
いつか母が、
ぼくと妹に湯たんぽの湯を使わせようとしたら
父が「子どもにはタライの使え」と母を叱って、
母はそれから、湯たんぽの湯を子どもたちに使わせようとはしなかった。

 

一晩足元に置いたそれを、せめて子どもたちには
使わせたくないといった、父なりの子育て流儀だったのだろう。
確かに、以前使った湯たんぽの湯は生ぬるく、
どんより気持ちの悪い温度でもあり、
寒がりの私と妹は、それにストーブで沸かしたタライの湯を足して使った。
単に、その二度手間が面倒だったのかもしれない。



あの時代。北海道の1月、2月は、どの家だって例外なく寒かった。
それでも、寒さの少し緩む日もあり、
そんな晩には「今夜は湯たんぽ、いいべ」という父の一言で湯たんぽは却下となり、
私は父の布団、妹は母の布団に潜り込んで寝ることになる。


何度か母の布団で寝たことがあったが、
腕も脛も足もツルツルとして柔らかい母の肌は性には合わず、
もっぱら父の布団を好んだ。
ふだんは怖い父も
そんな夜だけは「寒いべ。足くっつけて」とやさしいことをいい、
足にぴたりと肌を寄せて寝ると、湯たんぽ以上の暖かさが感じられた。



小さな手をかざすだけでそれが焼けそうになるほど、
家の真ん中に置かれた石炭ストーブは、
最大馬力で走る機関車の釜のように燃えていた。
わざと屈折させ、
できるだけ長く伸ばした煙突は室内にほどよく熱を配り、
その煙突にチョークで描かれたメモが、家族のカレンダー代わりである。
メモといっても「トウサン、トマリ(勤務)」「兄、シュギョシキ(終業式)」
といった他愛ないもので、母の字が多かった。


母が内職の洋裁の仕事を外に届けに行くときには
学校から帰った私たちが「カアサン、カエリ3ジ」といったメモを確認し
それまでは家のなかで留守番をする。


酒癖の悪い父と母との諍いは、中学に入るまで絶えることはなかった。
そんな時、夏だとプイと外に飲みに出ていった父も、
厳寒の冬だとそうもいかず、
捨て台詞の一つも吐いて、ふて寝するのが精一杯。


湯たんぽのないそんな夜も、私は父の布団に入っていった。
すでにガウガウといびきをかいて熟睡している父は、
いつもに増して暖かかった。


冷えた足をすね毛に寄せると、細い毛が羽のように子どもの肌を撫でた。
母は泣きじゃくる妹を抱きかかえて布団に入った。
布団に潜った妹は、すぐに静かになって眠りについたろう。



夜は気持ちの悪いほど静まりかえり、
ストーブにのせたタライの湯だけが煮えくりかえって、
カラカラと音とたてていた。
しばらく眠れずに目を開けると、ストーブの口から漏れた橙色が
闇の天井に映ってゆらんゆらんと揺れている。


木窓を叩く風の音に寒さを感じ、足で父のすね毛に触れる。
時折、父は「大丈夫、大丈夫…」と寝言をいった。