言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

【にあんちゃん】=貧しさのゆくえ。


  

  

 
昔、映画は観たが、本は手元になかった。
何冊か取り寄せ、いまは本棚に。
映画は日本でただ一人、
カンヌ映画祭で最高賞を2度受賞した
今村昌平が監督している。

 
昭和28年、佐賀県の炭鉱町。
幼くして(朝鮮半島出身の)両親を亡くした兄妹4名が
貧しさのなかで生きる姿が、
10歳の少女の目を通して綴られる。
文章が、春の雪解け水みたいに透き通って見える。

――先生が、四年生のりかの本をもってこられ、
「あした、お金をもってきたじゅんに、
この本をわたします」といわれました。


にあんちゃん(二番目の兄さん)がきたので
「末子たべんから、べんとうやるけん、とりおいで」
というと、
「そがんことせんで、おまえたべれ」
といってしかられました。


きかいはまわっていませんが、兄さんは、
七時までざんぎょうです。
山のてっぺんだから冬がくるとこまります。
さむいのです。


とうとう、兄さんは、あしたから仕事に
行かれないことになりました。
会社は、りんじからまっさきに首を切ったのです。
 

私たちは、いまこの家から、
出ていってくれといわれているのです。
それで、兄さんは、また新しく、
私たち二人をあずかってくれる家を
さがしまわっているのです――。
 
 

私の生まれた北海道の炭鉱町にも、
朝鮮半島出身の家族は数多くいた。
戦時中は労働者が大量に「徴用」されたのである。
 
 
公園近くの森には、
彼らの慰霊碑がひっそりと建っている。
故郷に帰れず、
過酷な労働の果てに亡くなった方々は、
どれくらいいただろう。
 

宿舎は「タコ部屋」と呼ばれていた。
食べるものがなく、しまいにはタコのように、
自分の身体を食べるほど
飢餓状態にあった、という話に由来する。
その方々の子孫が、日本人よ、忘れてはいないか、
といまもなお、声を上げているのである。
 
 
ある日突然、両親がいなくなり、
小学生の兄弟だけで生活している同級生がいた。
近所の人たちが、
毎日、米や味噌を分け与えていた。
同じヤマ(炭鉱)で
働いていても、炭鉱住宅にさえ入れない家族がいた。
 
 
その人たちは、河畔や山里の隅っこに
隠れるようにして暮らしていた。
搾取されてばかりいる
階層の人たちがいることを、
子どもたちもでさえ、知っていた。
 
 

小学校に入ったばかりのころの話だ。
父と映画を観ていて、
突然、ケンカが始まったことがあった。
怒号と同時に闇が切り裂かれ、
いきなり灯った照明に目がくらんだ。
中国人と朝鮮人の集団同士のケンカであった。


父たちがすぐに仲裁に入ったが、
双方のリーダー格が
「これは我々の面子をかけたケンカである。
日本人は外に出なさい」
といって私たちは外へと追いやられた。
それぞれ5、6人のグループだったが、
全員が腹に巻いたサラシから、
ドスを引きぬくのが見えた。
 
 
刃(やいば)が白く光った。
私たちは遠くから、
きらきら光る何本もの刃先をじっと眺めていた。
それから何分かして
警察が来て、騒ぎは収まった。
 

貧しさは、絶対に人を幸せにしない。
そう思ったのは、
あの時代からだった気がする。