言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

簡潔・省略・余韻。

〇日

きな臭いニュースばかり。今日は、動かないこと。目標は、この一点に絞る。努める。早朝から遠藤周作「深い河」を読む。348ページ。再再読。生い立ちや社会的な立場、背負っているものが異なる人々が、インドのガンジス川を目指す。

「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」

「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。その中にわたくしもまじっています」

この文章に、前回、前々回に読んだときの線が二重に引かれ、ページの端が折られている。あのときの自分は、何を感じたのか。見えている流れが、私たちが捨ててきたものかもしれない。

 

 

〇日

建築家のAさんが、以前、お会いしたとき、こんなことを話していた。「日本人には、昭和30年代くらいの暮らしが丁度よいのではないか」。少しくらいの不自由さが楽しいと思ってきたが、百均のお店に行くと、これ便利かもと思って、つい買ってしまう。確かに、昭和30年代と比較すると、いまの日本人の暮らしは腹二十分目。そこから、腹八分目をめざしても、20×0.8で、まだまだ満腹以上になる。向田邦子が書いていた。大切なのは「簡潔」「省略」「余韻」。文章も暮らしも同じ。

 

 

〇日

10:30、B君と会う。先週「以前、お世話になったBです。遊びに行っていいですか」と電話。「以前…」と説明するその律儀さが、少しも変わっていない。当時、C大学から紹介され、アシスタントとして手伝っていただいた。そのうち会えるだろう…と思いつつ5年が過ぎていた。

「自分に自信が持てるまで、会わないと決めていました」。相変わらず生真面目な顔をする。クッとなるのを抑えつつ「ありがとうね」と返した。帰り際、「またね」と握手。こんなうなずき合いに、主張も批判も嫉妬もない「共に是れ凡夫」の歓びを感じた日。

 

※凡夫/聖徳太子は「十七条憲法」の第十条で「われ必ずしも聖に非ず、かれ必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ」といい、互いに許し合って生きてゆく世界の根本を願った。

 

 

〇日

ライブラリーの中から、映画「春との旅」を観る。北海道・増毛。さびれた漁村の古い一軒家から、老漁師の忠男が、不自由な足を引きずり家から飛び出してくる。慌てて、その後を追う孫娘の春。春が職を失ったのをきっかけに、偏屈な同居人・忠男の預け先を探す二人の旅が始まる。

 

列車を乗り継ぎ、フェリーで海を渡り、二人は忠男の兄弟を一人ひとり訪れては、老いた自分を引き取るよう頭を下げる。しかし、数十年ぶりに再会する兄弟たちは皆、それぞれの事情を抱え、引き取る状況にはない。兄弟の絆を確認できたところにだけ、救いがある。傍らで、その様子をじっと見守る春。

 

引き取り先が定まらないままの、旅の終盤。春が突然、幼い頃に自分を捨てた実の父親に会ってみたいと言い出す。春と別離した父親との関係もまた、閉ざされたままであった。

 

再会の場で、初めて知った父親の再婚。離婚後、母親が自殺した理由もそこで明らかにされる。この母親は、忠男の娘でもある。その忠男がそっと席をはずし、父娘二人きりの時間をつくる。

 

「人って、自分のことしか考えられないの?」。春の罵声をじっと受け止め、父親は泣き崩れる春を、無言で抱き寄せる。

 

忠男の引き取り先を探す旅も、そろそろ終わり。二人には、かすかな微笑が戻っている。春は「私はおじいちゃんと、ずっと暮らすことにする」と決心する。忠男もまた、それを受け容れる。食堂でソバをかき込みながら。二人の頬には涙。

 

増毛に向かって列車が走る。疲れきった忠男は、春に身体を預けたまま眠っている。車窓の向こうに海が見えてきた。日本海である。列車のアナウンスが「次は終点、増毛、増毛…」と、流れたところで忠男は列車の床に崩れ落ち、生涯を閉じる。

 

引き取ることはできずとも、どんなに偏屈な男でも、兄弟であることに変わりはないという約束。二度と会うことはないとわかっていても、生涯、実の父娘という関係に変わりはないという約束。明日からの生活に何の保証がなくとも「ずっと、おじいちゃんと暮らす」という約束。

二人が旅で学んだことは、人間、「約束」さえあれば生きていけるという確信ではなかったか。

 

本も映画も、繰り返し読んだり、繰り返し観たり。なかなか、前に進まず、時代のはやりに追いつけない。三歩進んで四歩下がる。そんなんで、今生は終わり。