言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

マザーグース「Solomon Grundy」=儚さのたとえ。

夕食を終えて庭に出ると、自宅の前の林のほうからヒグラシの大合唱が聞こえてくる。秋の訪れを連想させるが、資料を見ると、出現はむしろ早めで、6月の末頃からなのだという。昨年はこの鳴き声を聞いたかどうか、覚えていない。

 

子どものころ、ヒグラシの鳴き声を聞いて、いったい何がそんなに哀しいんだろうって、こっちまで気持ちが落ち込んだものだった。


セミは7年間も地中にいて、地上では1週間の命。何とも儚い一生だ。もの哀しげな鳴き声は、枝葉や幹の間から霧雨のようにさわさわと降り注ぎ、水のようにゆっくりと地面に吸い込まれていく。鳴き声だけでも地中に還りたい。そんな静かな叫びのようにも思えてくる。

 

 

 

 

この間、本棚にあった『マザーグース』を開いていたらたとえという、人の一生を1週間にたとえた詩があった。


Solomon Grundy,
ソロモン・グランディ

Born on a Monday,
げつように うまれて

Christened on Tuesday,
かように せんれい

Married on Wednesday,
すいように けっこんして

Took ill on Thursday,
もくように びょうき

Worse on Friday,
きんように きとく

Died on Saturday,
どように しんで

Buried on Sunday.
にちようには はかのなか

This is the end
はい それまでよ

Of Solomon Grundy.
ソロモン・グランディ   (谷川俊太郎 訳)


人の一生も、セミの1週間と大差なく思えてくる。もうすぐ、母の新盆、義父の一周忌。あんなに長く濃密だったが日々の記憶が、すごい速さで薄れていく。「This is the end」は「そんな生き方でいいの?」と問うているように聞こえてくる。