言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

余白と情念。

注文していた歌人河野裕子さん著「桜花の記憶」(中央公論新社)が届く。友人のE子さんからのメールで、どうしても読みたくなった。

 

離れてみて、初めて見えてくる風景というものがある。

そしてその風景は、おそらく風土の本質そのものであるのだろう。

(「郷里への遠近法」)

 

 

ページをめくるだけで、言葉が、胸に迫ってくる。身の回りの小さな出来事を凝視しながらそれを自分の奥底に在る魂に交差させ、丁寧に編み込んだ言葉の破片。自律された生活の清廉な匂い。艶を放つ情緒、芳香、知性。それらが、きれいだ。言葉を並べて、いい気になっている自分を恥じる。

 

 

仕事の帰り、ブックオフで久々に5冊。カフカモーム三島由紀夫向田邦子ミヒャエル・エンデ。まだ、新刊を読む気にはなれない。うち4冊は以前にクリーンセンターで捨てた本。買い戻しが続いている。アホだ。

 

わかったつもりになっていた自分。上質な文章を読むと、胸の内側がガスバーナーで焼かれたようにひりひりして青白く光る。チカラのある日は「よしっ」という気になるが、チカラのない日は「自分など最低だ」という邪気が入る。

 

本を読むには、その日の自分との駆け引きが大切だ。自分にとっては、生涯、いかなる本も学びのためのテキストでしかない。

 

 

最近よく聴くのが、由紀さおり徳永英明一青窈ちあきなおみなど昭和の「歌謡曲」。これらもひと昔まえのものばかり。一青窈は「天使の誘惑」がいい。徳永英明の「真夜中のギター」、由紀さおりの「りんご追分」も極上の味わい。ちあきなおみは「黄昏のビギン」。

家も飲み屋も喫茶店も駅もタバコの煙でむせ返っていたあの時代が、いまよりずっと健康的で無垢に思えてくるのはなぜだろう。

 

謡曲は情念の塊。童謡は逆に、あらゆる情念を取り払って歌う。

聴く人が、そこに自分の人生を重ねる余白が必要なのね。

 

由紀さおりの言葉。こういう言葉で音楽を表現できるプロが日本に存在することを幸福に思う。

 

余白のない町、人、家、情報。美しさとは、あいまいな領域にこそ、ひっそりと潜んで、静かに放たれるものだ。

 

庭のイチゴがたくさん採れた。

うれしい。