言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

尽きる言葉。

〇日

ボックオフ。以前より通う頻度は減ったが、この日も30分ほどいて、1冊も買わずに店を出る。芥川賞が発表されたばかりだが、棚には、ここ数年の受賞作がずらりと並ぶ。全て100円。

 

帰り、大型書店に入る。売れ筋の商品が店頭で置き本になっている。置き本には興味がわかず、棚の背文字から本を選ぶ。目が弱くなったので、きつい。

 

長い間、本を選ぶ目がないと思ってきた。が、最近は、自分の手もとに置きたくない本が店頭に集まっている──と思うことが増えた。

 

描かれたがっている物語は、星の数ほどあるはずなのに、流通する本に、描く力が感じられない。読み手の私たちは、これをやれば、こんな利益がある、という「情報」にしか興味がない。本もまた、ネット化してきたに違いない。

 

メディアとしてのインターネットの最大の弱点は、デザインと写真だけが視覚に入り込み、文章の力が「情報」としてしか身体に入ってこないことだ。一流作家の名文や写真もデザインパーツの一つとしてしか、認識されない。

 

日本語(漢字・ひらがな)は本来、横組みで読むようにデザインされてはいない。活字が紙に印字されず、無意識に得ていた紙の触感、匂いが感じられないことも要因の一つ。本はふれながら、繰り返し読むメディアだったはずだ。文字組み、フォント、段組み、行間など、文字と余白の扱いを理解していないウェブデザイナーたちの力量も問われてくるだろう。

 

これだけ言葉が飛び交って、こんなにも言葉が希薄になっている。常に誰かとつながりたいという幻想が、人をいっそう孤独にする。孤独に耐えられない人から、人の魂に迫る言葉が編まれることはない。

 

「1年で寿命が尽きる作品などに手を出さないこと」

 

「重圧を与え続けると、バネの弾力がなくなるように、多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる」

「読書について」 光文社古典新訳文庫 ショーペンハウアー (著), 鈴木芳子 (翻訳))

 

150年も前に記されたこの言葉が、重く響いてくる。